そもそもいまでも、学校から会社や組織に入ったときに、すごく「段差」がある。学校とリアルな社会では賢さの定義が違います。高校までは、教科書の範囲内で問題が与えられ、一人で解ければいい。これが学校での賢さです。でも、リアルな社会は違う。高度に情報化している現代社会では、自ら解くべき課題を設定しなければなりません。与えられた問いを一人で解くことは賢さではなく、自分で問いを設定し、多くの人々を巻き込みながら解くことが、リアルな社会における賢さなのです。
(教育新聞 編『FUTURE EDUCATION 学校をイノベーションする14の教育論』岩波書店)
こんにちは。勉強はよくできるのに、遊びをうまくリードできない子がいます。社会学者の宮台真司さんが、著書に《ゼミで優秀な発言をする学生こそ「踊れる身体」を持っていてほしいと私は望んだ》と書いていましたが、まさしくそういった感じです。感覚としては、
都市部の小学校に多い。
冒頭の引用(By 中原淳さん)でいえば、勉強は学校に、遊びはリアルな社会に対応するでしょうか。たとえ勉強ができても、他者を巻き込みながら遊ぶことができなければ、いつか「段差」につまづくことになります。オランダのイエナプラン教育が、遊びを4つの柱(サークル/対話、仕事/学習、遊び、催し/行事や祝い)のひとつにしているのも、学校とリアルな社会をつなぐためでしょう。つまり、日本の学校教育のものさしには、
ズレがある。
学習面。
身体面。
社会面。
学校教育における子どもたちへの支援を大きく分けると、上記の3つになります。遊びは社会面に入るでしょうか。著書『ケーキの切れない非行少年たち』で知られる宮口幸治さんが言うには《この中で何が一番大切かと学校の先生方に尋ねると、ほとんどの方が「社会面の支援」と答えます。しかし、そのために学校でどのような取り組みをしているかと聞くと、「何もしていない」との答えがほとんどなのです。》とのことで、やはり、ズレが生じていることがわかります。
教育新聞 編『FUTURE EDUCATION 学校をイノベーションする14の教育論』を読みました。以下の16人へのインタビューによって編まれた一冊です。ノーベル賞受賞者から YouTuber まで、多士済々という表現がぴったりの面々。このブログで取り上げたことのある人たちもたくさんいて、読み応え十分です。
Ⅰ 教育の先にある未来
#1 野依良治 人類は進歩し続けなければならない
#2 ブレイディみかこ 「誰かの靴を履いてみる」こと
Ⅱ 学校のイノベーション
#3 日野田直彦 2050年を生きるための教育
#4 中原淳 アクティブな学びは組織が生み出す
#5 遠藤直哉 進学校でも受験向け授業はしない
#6 木村泰子 「教員の学校を断捨離」
#7 鈴木大裕 「幸せ」「成功」の価値観を変える
Ⅲ 近未来の教育
#8 山口文洋 スタディサプリが変える教師像
#9 神野元基 進度2倍、AI型教材キュビナの衝撃
#10 宮口幸治 学校でしか救えない子どもたち
#11 高橋一也、堀尾美央、正頭英和 Think Globally, Act Locally
Ⅳ ポストコロナの学校像
#12 平川理恵 コロナ危機で問われる学校の本質
#13 新井紀子 読解力低下を「読み解く」
#14 葉一 YouTubeが変える学校
「14の教育論」を読んでいただくと必ず、「未来志向の潮流」とでもいうべき、一本の太い流れが見えてくることでしょう。
教育新聞編集部長の小木曽浩介さんが書いている「はじめに」に、そう書かれています。わたしに見えてきた一本の太い流れが、最初に書いた「ズレ」に関すること。2学期末、通知表にABCをつけながら、これっていったい何の役に立っているのだろう、という違和感が払拭できなかったのも、そういった「ズレ」から生じているように思います。
ものさしが、ズレている。
例えば木村泰子さん。大阪市立大空小学校の初代校長として知られる木村さんは《誰も「学力」のことを「テストで高い点数を取る力」「良い学校に進学するための力」「受験のための力」などとは言いません。それが本来の学力ではないということは、どの先生も知っているわけです》と書きます。でも、実際に授業でやっているのは、そういった「見える力」を高めることです。それって、
おかしくないですか(?)、と。
例えば鈴木大裕さん。著書『崩壊するアメリカの公教育』で知られ、現在は土佐町議員を務めている鈴木さんは、高知県の幸福度指数が低いことに疑問を抱き《「もしかしたら、この幸福度指標そのものが間違っているのではないか?」と考え、経済指標では測れない、高知県らしい豊かさの指標として「高知県民総幸福度(GKH=グロス・コウチ・ハピネス)を作ったのです》と書きます。
ズレを正したというわけです。
木村泰子さんが自身の学校で話し合った際に出てきたという、「見える力」よりも大切な「見えない力」は、以下の4つ。
1 人を大切にする力
2 自分の考えを持つ力
3 自分を表現する力
4 チャレンジする力
鈴木さんらが作った「高知県民総幸福度(GKH)」の例として挙げられているのは、以下の7つ。
1 通勤時間が短い
2 困った時に助けてくれる人が近くにいる
3 豊かな自然に恵まれている
4 おいしい食材がすぐに手に入る
5 居酒屋で初対面の人と意気投合したことがある
6 女性が安心して外へ飲みに行ける
7 家族団らんの時間が十分にある
これはすごく面白いし、夢があると思いませんか。もし幸せの枠組みそのものを問い直せるのであれば、学力でも同じことができるのではないかと、私は期待しているのです。
(中略)
これまで、「学力」とキャリア、そして経済力を結びつけて話すことはあっても、教育と幸せを結びつけて話すことはほとんどありませんでした。私は、そこにこそ大きな問題があるように思います。もし教育の先に、そして「学力向上」の先に、「幸せ」がないのであれば、そんなものはいらないと、私は自信をもって言います。
都合よくラディカルに要約すると、子どもたちを小さな土俵の上で競い合わせるような通知表は、いらない、という話です。そんなものは、いらない。「見えない力」や「高知県民総幸福度(GKH)」に相当するもの、そして宮口さんのいう社会面の支援を大切にしていれば、「見える力」は後からついてくる。そういった話でもあります。
至極もっとも。
この至極もっともなことがなかなか学校現場に浸透せず、いつまでたってもテストの得点率が95%以上ならA、95%~60%はB、60%未満はCなんてことに凄まじい時間を費やしているのは、わたしたち教員に「変わるための余裕や資源がなさすぎる」ためでしょう。この本の存在を Twitter で教えてくれた中原さんが、次のように書いています。
アクティブ・ラーニングを含め、新しいことを始めるには、経営学的に言えば学習資源が必要です。つまり、学ぶための時間、変わるための時間を確保しなければならないわけです。経営学では「スラック」や「余剰資源」と呼びますが、現在の教育現場にはこうした「変わるための余裕や資源」がなさすぎるのです。
なぜ「なさすぎる」のかといえば、それは日本の教育政策が現場からの帰納ではなく、上からの演繹型思考によって行われているからです。その話は昨日のブログに書きました。イノベーションは、現場から。中原さんも、インタビューの最後に《そして、あくまでも学校を変えていくのは、当事者である教師自身です。》と発破をかけています。
昨夜は2日遅れの長女の誕生日会でした。平日の夜に、こういった会を開くことができる余裕が、イノベーションによって生まれるといいなぁ。大空小学校の教員や、土佐町の教員には、そういった余裕があるのかなぁ。そうだとしたら、どうやったらそうなるのか、発信してほしいなぁ。
未来の教育に、酔える一冊。
お勧めです。