「ヤブ医者」というのは、腕の悪い医者の意味ではない。朝廷に仕える正規の医師と違って、「野」にいて、それでいて「巫」、つまり巫女(みこ:ふじょ)のようなシャーマニックな治療を行う人たちのことを言ったのだ。祈禱師や陰陽師のような人たちだ。『源氏物語』に出てくるような、怪しい治療者たち、それが野巫医者だ。
「ヤブー、ヤブ医者、野巫医者・・・・・・」私はもう一度、呟いた。
そのときだ。突然、ロクでもないアイディアが降ってきた。魔が差す時間帯だったのだ。
「野の医者!」
(東畑開人『野の医者は笑う』文春文庫、2023)
おはようございます。月~金の疲れが抜けず、土曜日の午前中はいつも「何もしないをする」をしてしまいます。
今週も、疲れたなぁ。
もう何年も前のこと、今と同じように長時間労働で疲れ果てていた私に、友人がレイキを流して「癒やそう」としてくれたことがありました。いわゆるレイキヒーリングってやつです。友人は、東畑開人さんいうところの「野の医者」のセラピーに通っていて、それもマスターセラピストと呼ばれる凄腕の「野の医者」のところに通っていて、チャクラがどうの、エネルギーがどうの、量子力学がどうの、遠隔がどうのって、それこそ巫女のようにかわいい目で、否、曇りなき眼で言うんです。魔が差す時間帯だったら別の意味で危なかったかもしれません。
セーフ。
正直、洗脳されているとしか思えませんでした。野の医者によって、友人が、です。マスターセラピストが学級担任になったら、学級王国をつくれるに違いない。そうも思いました。
東畑開人さんの『野の医者は笑う』読了。心を扱う臨床心理士と、同じく心を扱う野の医者(セラピー等)はどう違うのか。《心の治療とは、クライエントをそれぞれの治療法の価値観へと巻き込んでいく営みである》とあり、教育とはどう違うのかという見方・考え方も働かせることができて大満足。#読了 pic.twitter.com/GItv041dB3
— CountryTeacher (@HereticsStar) June 5, 2025
教育とは、子どもたちをそれぞれの教育法の価値観へと巻き込んでいく営みである。そういうふうにも言えます。では、心を扱う臨床心理士や野の医者(セラピー等)と、教科道徳等を通して同じく心を扱う教員は、
どう違うのか。
東畑開人さんの『野の医者は笑う』を読みました。1983年生まれの著者が32歳だったときに出版された本の文庫バージョンです。臨床心理学の可能性を心から信じていた若き東畑さんが、沖縄で活躍している数多の野の医者のもとを訪ね、自身のレーゾンデートルをはっきりさせるという意味での、いわゆるマルティン・ブーバーいうところの『我と汝』効果によって、臨床心理士とは何か、心の治療とは何か、という根源的な問題に、
迫る。
そういった内容の一冊です。ちなみにネタ本は高野秀行さんの本とのこと。高野さんは、ユーモアのある文章を書くことで知られる冒険家です。つまり基調は、
笑う。
結論を先に書いておくと、野の医者を巡る冒険を通して、東畑さんは変容し、その8年後、これは文庫版のあとがきに書かれていることですが、大学というアカデミックな場から離れ、すなわち権威から離れ、自らも野の医者になります。冒険に出る前は、臨床心理学教の敬虔かつ熱心な信奉者だったのに。権威に弱く、近代医学を信じていたのに。野の医者巡りには、価値観を相対化する、すさまじい教育効果があったというわけです。その効果が生まれるプロセス、すなわち学校でいうところの授業記録が書かれているこの本が、おもしろくないわけがありません。
かわいい子には旅をさせよ。
野の医者たちの治療に触れる中で、私はポストモダンの不確実性に苛まれていた。確かに野の医者を見ることで、私は臨床心理学を再考してみようと思った。でも、その結果、臨床心理学の学説が物語であり、技法がパフォーマンスに過ぎないとなったら、どうしたらいいのだろう。
私は何がなんだかわからなくなっていた。治療って一体なんなんだ。こんなことを考えていて、私は大丈夫なのだろうか。深く考えない方がいいこともあるんじゃないか。
多くを比べると書いて、多比。
再考、すなわち相対化です。相対化する自由を手に入れるためには、多比を、すなわち旅をするありません。旅人がかわいければ、別言すると素直であれば、たくさんの「人」がフレンドリーに接してくれます。その点、ある隻眼のカミンチュから《東畑さんの本性は異常に軽い》と言われたという東畑さんは、そして「人に開く」という名前をもつ東畑さんは、フットワークの軽い旅人としても素直な旅人としても100点満点だったのでしょう。そんなわけで、数多くの野の医者が、東畑さんに心を開いていきます。心を開くだけでなく、股も、否、チャクラ開きにも付き合おうとしてくれます。
「今度チャクラを開きにいかない?」ファミレスで茶飲み話をしているときに、ちゃあみいさんは言った。
「チャクラって開くものなんですか?」
「開人さん、レイキを感じられないんでしょ。それ、チャクラが開いてないからだと思うわけ」
「なるほど、確かに」私はレイキとか波動とか、気とかだけはまったく感受性がなくて、何も感じられないのだ。
「すごいところがあるから、一緒に行こう」
ちゃあみいさんはマブイセラピーという治療を行っている野の医者です。東畑さん曰く《ちゃあみいさんは私がもっとも親しく付き合った野の医者になったのだ》とのこと。彼女が働いている飲み屋で泡盛を痛飲することもしばしばだったとのこと。若き臨床心理士を惹きつけたちゃあみいさんの魅力は、次の文章によく表れています。
「宗教に入るのは何か違うわけさ。最後は自分だからね。私は自由がいい」
とは言え、それらは彼女が面白半分で儀式や集会に参加していることを意味しているわけでもない。彼女はその時々は真面目にそれらに取り組んでおり、講師の語るスピリチュアルな話や宗教的な真理に真摯に耳を傾けていた。
それでいて、彼女はそれらを自由自在に曲解して、好きなように使っていた。ブリコラージュここに極まれり。
教育もそうだなぁと思います。イエナプラン教育とか、ホワイトボード・ミーティングとか、佐藤学さんの「学び合い」とか、西川純さんの『学び合い』とか、自由進度学習とか、TOSSとか、それらの考え方や手法をブリコラージュしながら日々の授業を何とかこなしている毎日。心の治療が《時代の生んだ病に対処し、時代に合わせた癒しを提供するもの》であり、《その時代その時代の価値観に合わせて姿を変えていかざるを得ない》ように、教育の考え方や手法もまた、時代を映す鏡であるように思います。つまり、東畑さんが発見した臨床心理士と野の医者の類似点(読むとわかります)と同様に、野の医者と教員も、
似ている。
発見をもうひとつ。東畑さんが冒険を経て発見したことのひとつに、野の医者はみな、しんどい家庭環境であったり幼少期であったり結婚生活であったりを経て、野の医者に出会い、癒やされ、その結果自分も野の医者になるという物語を有している、ということがあります。野の医者になり、誰かに癒しを与えながら、自らも癒され続ける。その物語を強化すべく、肯定すべく、よく喋る。そして、
笑う。
笑いは楽しくなるためだけにあるわけではない。馬鹿にするためだけにあるものでもないし、現実逃避するためのだけのものでもない。苦しい場所で、一瞬自分から離れて、そこに逞しく留まり続けるためにあるのだ。
ブラックな学校に逞しく留まり続けるために。
笑う。