田舎教師ときどき都会教師

読書のこと、教育のこと

五木寛之 著『みみずくの夜メール』より。実っても頭を垂れぬ麦穂かな。

 あまりそういうことを書くと、いかにも自慢しているように思われそうだが、かつて60年代、70年代には、私の書いたものに共鳴して海外にとびだし、身をあやまった若者たちが少なくなかった。ごめんなさい。
 望月さんは、身をあやまらずに自分の生きる道を確立した幸運なバガボンドのお一人である。その経緯は、望月さんの著書『青年と砂漠』(講談社出版サービスセンター刊)にくわしい。
(五木寛之『みみずくの夜メール』幻冬舎文庫、2005)

 

 こんばんは。望月さんというのは望月勇さんという気功の専門家のことで、その望月さんに影響を与えた《私の書いたもの》というのが五木寛之さんの代表作のひとつである『青年は荒野をめざす』です。昔、読みました。若者たちを海外へと誘い、身をあやまらせたという点で、沢木耕太郎さんの『深夜特急』に似ています。青年は深夜特急に乗って荒野をめざし、

 

 バガボンドに。

 

 

 バガボンドの意味は「放浪者」です。学校帰りや休日の夜にしばしば「酔り道」をしたくなるのは、幸運なバガボンドへの憧れがあるからかもしれません。幸運なバガボンドのひとりである五木さんの人生も、カラクリに満ちていて、

 

 ホーホー。

 

 

 五木寛之さんの『みみずくの夜メール』を再読しました。02年から05年まで、3年間にわたって朝日新聞の朝刊に連載されていた著者の名エッセイ(54編)を収録した一冊です。1932年生まれの五木さんは、現在、

 

 92歳。

 

 

 92歳でシャンとしているって、すごい。なぜシャンとしているのかといえば、それから、なぜ麦穂が頭を垂れないのかといえば、それはおそらく幼少期に踏まれて育ってきたからでしょう。

 

 いわゆる麦踏みです。

 

 とにかく、それぞれの家族の、それぞれに異なる事情のなかで、たくさんの赤ん坊たちが、手放され、北朝鮮に残った。
 私はこれを残留とは呼びたくない。本人の意志と関係のない出来事だからである。

 

 念のために書いておくと、麦踏みというのは、文字通り麦を踏むことをいいます。正確には、早春に麦の芽を踏むことをいいます。なぜ踏むのかといえば、それは根張りをよくするためです。初任校の総合学習で麦を育てたときに、クラスの子どもたちとやったなぁ。最初はおそるおそる、途中からは大胆に。初等教育は本来こうあるべきだって思いつつ。

 

 懐かしい。

 

 念のためにもうひとつ書いておくと、五木さんは《第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母は死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる》(Wikipediaより)という、麦踏みどころではない重い過去をもっていることで知られています。重い過去をもっているからこそ、幼少期に麦踏みどころではないくらい踏まれまくっているからこそ、五木さんは楽天的で、

 

 優しい。

 

 前回のブログで紹介した灰谷健次郎さんの『わたしの出会った子どもたち』に出てくる《重い人生を背負っている子どもほど楽天的だった。苦しい人生を歩んでいる子どもほど優しさに満ちていた》と共鳴します。ちなみにこれを逆にすると、次のようになります。重い人生を背負っていない子どもほど厭世的だった。苦しい人生を歩んでいない子どもほど優しくなかった。

 

 どうでしょうか。

 

 いまにして思えば、驚くほど多くの子どもたちが洟をたらしていた。男の子だけではない。オカッパ頭の女の子もそうだった。
 そういう餓鬼たちを「二本棒」といった。餓鬼という言いかたも、いまはしない。児童とかいうのだろう。

 

 エッセイ「二本棒と免疫力の関係」より。幼少期に踏まれることで、楽観的かつ優しくなるのが餓鬼。幼少期に踏まれるどころか、保護者が何か言ってきたらどうしようって、教員から腫れもの扱いされることで、厭世的かつ優しくなくなるのが児童。極端な話、そのような見方・考え方を働かせたとしても、あながち的外れではないかもしれません。ダメなものはダメという、麦踏み的な教育ができなくなったことで、

 

 日本人はどうなったのか。

 

『免疫の意味論』の著者である多田富雄さんは、いつか私にこう言われたことがあった。
「青っ洟をたらさなくなったことで、日本人の免疫力は低下したんです」

 

 青っ洟をたらさなくなったことで、換言すると餓鬼が児童になったことで、日本人は弱くなった。そういうことでしょう。弱くなってしまった日本人に、五木さんはマクシム・ゴーリキーの言葉を贈ります。五木さん自身も、この言葉に救われてきたとのこと。

 

「そりゃあ、人生はひどいもんさ。だけど、どんなにひどくても、自分でそれを投げ出すほどにはひどくないと思うよ」

 

 そりゃあ、クラスはひどいもんさ。だけど、どんなにひどくても、自分でそれを投げ出すほどにはひどくないと思うよって、現在、児童の支援・指導に困っている全ての先生たちに贈りたい。

 

 うちのクラスもなかなか手強い。

 

 ホーホー。

 

 

青年と沙漠

青年と沙漠

  • 作者:望月 勇
  • 講談社出版サービスセンター
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