ほんとうにこの国は、「過剰同調社会」ではないだろうか。経営組織における業績評価と成績主義は行政組織にも導入されるべきだとの言説が展開されるのは、1990年代以降である。いわゆるNPM(新しい行政管理)として、イギリスやニュージーランドにはじまり多くの国を席捲していった。日本も例外ではなく、中央・地方を通じた行政組織の改革が、独立行政法人の設立や市場化テストというかたちで進むとともに、高齢者介護の市場化、さらには学区の自由化による擬似的な教育市場の形成がおこなわれてきた。本書はこうしたNPMによる行政の改革を本格的に論じることを目的にしていないが、行政活動の市場化・疑似市場化への疑問や問題提起は、きわめて低調なことを強調しておきたい。
学校における教員の自己評価システムも、こうした文脈のもとにある。
(新藤宗幸『教育委員会』岩波新書、2013)
こんにちは。前々回のブログに取り上げた、ジェリー・Z・ミラーの『測りすぎ』も、そうした文脈のもとにあります。2007年、私の教室に「指導力不足教員」として長期研修生が来たのも、そうした文脈のもとにあります。文科省が「指導力不足教員」への厳格な対処を求め始めたのが2002年。文科省に応えるように、東京都が教員のランクづけ(教員評価)に先鞭をつけ、首都に続けとばかりに他の道府県が教員の評価に加えて学校評価まで始めちゃったのが2003年です。同調圧力で「やらされている」ことに疑問をもたず、問題提起すらなされず、そもそも文脈を知らず、測りすぎを続けた結果としての、2024年現在の教員不足でしょう。
文脈って、大事。
世界の富裕層を魅了する日本酒ができるのは、稲と、水と、それから酒蔵で働く人たちのお陰です。先日、旅を通してそんなことを想いました。その土地を歩くと、すなわち文脈を辿ると、
見えてくるものがある。
教員採用試験の倍率が1倍を切る、なんて事態になっちゃっているこの期に及んで、引き続き「教職の魅力アピール」なんてやっちゃっている教育委員会とは、いったいどんな背景をもった組織なのか。授業でコラボしている大学の先生に勧められた新藤宗幸さんの『教育委員会』を読んで、その「文脈」を探ってみました。
新藤宗幸さんの『教育委員会』を読みました。初版は2013年。著者の新藤さんは、作家の猪瀬直樹さんと同じ1946年生まれで、専門は行政学です。副題は「何が問題か」。つまり、教育委員会には問題があるという前提で書かれた一冊です。
目次は以下。
第1章 いま、なぜ、教育委員会が問われるのか
第2章 教育委員会とは、どんな組織なのか
第3章 教育委員会制度は、なぜ誕生したのか
第4章 タテの行政系列のなかの教育委員会
第5章 教育を市民の手に取り戻すのは可能か
第1章「いま、なぜ、教育委員会が問われるのか」というと、いじめや体罰事件、教科書採択、日の丸・君が代問題など、2013年当時はそういった問題が噴出していたからです。大阪府の知事だった橋下徹さんが、学力テストの結果を公表しようとしない市町村教育委員会に対して「クソ教育委員会」などと罵倒したのもその頃(2008年)です。では、クソ教育委員会とは、
どんな組織なのか。
行政委員会としての教育委員会は、なによりも民衆統制・素人統制を基本として公立小中学校の基礎教育に責任をもつ行政組織である。~中略~。
公教育の実施に責任をもつといっても、実際のしごとは、かなり広範におよぶ。地方教育行政法は、教育委員会の「職務権限」を包括的にさだめている(第23条)。学校をはじめとした教育関係施設の整備と管理は当然のことだが、教職員の任免、研修、学校の組織編制、教育課程(カリキュラム)、学習指導、生徒指導、職業指導、教科書その他の教材、学校給食など19項目を列記している。
第2章「教育委員会とは、どんな組織なのか」より。それらの《広範におよぶ》仕事をする組織が、教育長と教育委員、事務局などから成る教育委員会です。直接公選や議会選出などによって選ばれる教育委員(5、6名)が表向きの「政治的中立」&「民衆統制・素人統制」を確保し、エリートと見做された教員が集う事務局が「専門性」を確保しているとのこと。表向き、と表現したのは《この国の教育行政システムを貫いているのは、文部科学省(初等中等教育局)― 都道府県教育委員会(事務局)― 市町村教育委員会(事務局)― 学校長なる下降型の行政システム(タテの行政系列)》だからです。実態は、民衆統制でも素人統制でもないということです。教育委員は隠れ蓑にすぎない。強いのは、事務局。では、こうしたタテの行政系列の、
歴史的な文脈とは?
第3章「教育委員会制度は、なぜ誕生したのか」に《教育委員会制度の導入が、この米国使節団の報告書に由来するのは疑いようがない》とあります。GHQによる戦後改革の話です。
政治的に独立性の保障された教育委員会をもうけるべき。
報告書にそう書かれていたんですよね(もちろん他にもたくさん書かれています)。だから教育委員会をつくった。ただし、使節団がモデルとしたアメリカのそれとは違ったかたちで、というのが実際のところです。
要するに、文科省が教育委員会への「指導・助言」のかたちをとりながら、統制のチャンネルとして重視したのは、行政委員会としての教育委員会ではなく、その事務局との緊密な関係を築くことであった。
繰り返します。強いのは、事務局。エリートと見做された教員が集う、事務局。タテの行政系列のなかに位置づけられた事務局が、国家の《統制のチャンネル》として使われることによって《学区の自由化による学校選択制の導入、教員そして学校についての評価、「指導力不足教員」の排除、そして全国学力テストの実施による学校間競争の促進、さらに日の丸・君が代の強制による良心の自由や思想・信条の自由の抑圧など、新自由主義と新国家主義による教育と学校「管理」》が進行しているというわけです。ついでにいうと教員不足も進行しているというわけです。
こうした状況にもかかわらず、「教育の地方分権」「教育における政治的中立性」を金科玉条として、教育委員会制度をまもれという議論がある。
第4章「タテの行政系列のなかの教育委員会」より。著者の憂いです。大事なのはタテではなくヨコなのに。では、どうすればいいのか。第5章「教育を市民の手に取り戻すのは可能か」に、いくつもの案が書かれています。
例えば、教育委員会が主催する研修について。
また、自治体独自の研修においても、教員だけの研修にくわえて、他の部門の職員との協働の研修や住民をくわえた研修が、積極的におこなわれるべきだろう。
気持ちはわかりますが、そして《他の部門の職員との協働や住民をくわえた研修》の大切さもよくわかりますが、もうこれ以上「自治体」主催の研修を増やすのはやめてくださいというのが、現場というか、私の見方・考え方です。研修の場は、言い換えると学びの場は、学校の外にたくさんありますから。これ以上研修を増やしたら、教員不足がより加速してしまいます。この案以外についても、諸手を挙げて「賛成」と思えるものが少なく、この第5章に関しては、行政の専門家である著者とのズレを感じてしまいました。
事務局には、教員に対するコントロール欲求を手放してほしい。
そして勝手に学ぶ大人が教員採用試験に押し寄せるように、労働環境の改善に力を注いでほしい。ちなみに1年前くらいから市の福祉課が主催している集いに参加しています。勝手に参加しています。研修ではありません。強制ではないからこそ、そして《他の部門の職員との協働や住民をくわえた》集いだからこそ、めちゃくちゃ勉強になります。今日はこの後、1学期の授業でコラボしたゲストのみなさんとの「振り返りの座談会」に参加します。
これも強制ではありません。
楽しみだな。