日本の義務教育制度には(特に他国と比較すると)高度に標準化された「平等化」機能があるし、学校現場でも個人間の差異が表面化しないよう「平等」を重視する傾向がある(苅谷2009)。ただ、ここでの「平等」は「同じ扱い」(equal treatment)を意味し、処遇を変えるのは差別感の温床とされてきた(苅谷1995)。この帰結は明快だ。学力格差は縮小せず、学習努力など行動格差は拡大している(第3・4章)。そう、どれだけカリキュラムを含む様々な要素を標準化しても、「扱いの平等」では格差縮小という結果には結びつかない。
(松岡亮二『教育格差』ちくま新書、2019)
こんばんは。授業の準備ができる。授業の後片付けができる。反転授業ができる。履修主義から習得主義になる。本を読む子が増える。テストの点が上がる。行事の精選が促される。カリキュラムの精選も促される。教師にも子どもにもゆとりが生まれる。家庭や地域の力を引き出せる。そしてフォローしたい子どもたちの処遇を変えることができる。
分散登校に伴う午前授業のメリットを幾つか挙げてみました。今日も、支援の必要な子を少しだけ残して、帰宅後の過ごし方や学習の進め方などについて1ON1で話すことができました。格差縮小のために必要な時間なのに、普段は忙しすぎてこの「少しの時間」すらも確保することができません。
学校は午前5時間制にして、午後は子どもたちを家庭や地域に還す。社会的経済的地位、いわゆるSES(socioeconomic status)の低い子は学校に残って教師の支援を受ける。小学校での教育格差を手当てするためのアイデアとしては、シンプルとはいえ、これがベストのように思います。
松岡亮二さんの『教育格差』を読みました。書店で目にはしていたものの、なかなか食指が動かなかった本です。松岡さんのことを寡聞にして知らなかったし、教育格差については、もういやというくらい直接間接に見聞きしていたからです。効果のある学校論しかり、田舎教師と都会教師をいったりきたりして体感した都鄙格差しかり、そして毎日の教室しかりです。
教育格差についての情報はもういい、と思っていたにもかかわらず、今回、松岡さんの本を買って読んでみたのは、ジャーナリストの神保哲生さんと社会学者の宮台真司さんの「マル激トーク・オン・ディマンド」(ニュース専門インターネット放送局)に松岡さんがゲストとして出演していたからです。松岡さん曰く「これだけ優秀なジャーナリストと、これだけ優秀な社会学者が、全力で社会をよくしようと闘ってきて、実際のところどうだったのか。もしも20年前に戻ったとしたら違う闘い方をするのか」云々。神保さんも宮台さんも痛がる、鋭い逆質問です。
この人、ただ者ではない。
『教育格差』の章立ては以下の7つです。
第1章 終わらない教育格差
第2章 幼児教育 ―― 目に見えにくい格差のはじまり
第3章 小学校 ―― 不十分な格差縮小機能
第4章 中学校 ―― 「選抜」前夜の教育格差
第5章 高校―― 間接的に「生まれ」で隔離する制度
第6章 凡庸な教育格差社会 ―― 国際比較で浮かび上がる日本の特徴
第7章 わたしたちはどのような社会を生きたいのか
第1章から第6章までは、松岡さんの「学術的雪かき」が続きます。村上春樹さんの「文化的雪かき」に対応する言葉とのことで、曰く《何で2010年代も終わろうとしているのに、この程度のことがまっとうなデータで示されていないのだろうか、という社会全体に対する落胆と共に液晶画面に向かって黙々と作業してきた》云々。
やれやれ。
学術的雪かきによって、日本は穏やかな身分社会であること、すなわち「出身家庭と居住地域という生まれ(社会的経済的地位/SES)によって、人生がある一定の方向へと水路づけられてしまう」ことが、まっとうなデータをもとにただひたすらに示され続けます。第3章の小学校でいえば、《入学時点の学力が、小4時の学力と関連している》や《両親大卒層は多種多様な習い事を早い時期から始め、小4を境に塾の利用・学習時間の増大に焦点を移している》、《両親大卒割合によって、習い事・通塾の有無、学習とメディア消費に使う時間、それに親の学校関与が学校間で異なる》など、そのほとんどが「そうだよなぁ」と皮膚感覚で共感できる内容です。
「生まれ」が人生の可能性を制限してもよいのか。
よくない。では、教育格差を縮小するためにはどうすればいいのでしょうか。第7章では、2つの具体的な提言が行われます。
提言1 分析可能なデータを収集する
提言2 教職課程で「教育格差」を必修に!
提言1の大切さについては、例えば本年度からはじまるキャリア・パスポートのことなどを考えるとわかります。効果を測定することは、教育格差をむしろ拡大してしまうような、やりっぱなしの教育改革に歯止めをかけてくれる可能性があるからです。キャリア・パスポートなんて、格差の拡大に寄与することはあっても、縮小に寄与することはまずないでしょう。「お家の人から」みたいな欄も百害あって一利なしです。低SESの子、家に持ち帰ったらなくしてしまいますから。
提言2に関しては、やらないよりはやった方がよいとは感じるものの、そのことが教育格差の縮小に影響を及ぼすとは思えません。現場で働いていれば、いやが上にも「教育格差」のことは身に沁みてくるからです。とはいえ、松岡さんが提言の前提のひとつとしている「同じ扱いでは格差は縮小しない」という事実は、あまりにも重い。
もちろんこれは公教育が無力という意味でない。もしも「平等化」を意図した標準化された制度がなければ、家庭と地域のSESがより直接的に子どもの教育機会の質と量を左右することになるはずだ。一方で「同じ扱い」の義務教育があるからこそ「機会の平等」という幻想が流布していると解釈することもできる。
現在、コロナ禍によって教育現場が一時的に変化しています。フォローすべき子に「違う扱い」をする時間が生まれているということも、そういった変化のひとつです。松岡先生、教育格差を縮小するための提言3として、学校は午前だけにして、フォローすべき子は午後に「違う扱い」をするっていうのはどうでしょうか。
おやすみなさい。