僕は従来からフランクルには強く共鳴し、論文を書いたこともあるし、『唯が行く!』で当事者研究の思想的源泉として解説した。苦悩することによって人生は輝きを増す、苦悩することそのものに「体験価値」があるというフランクルの思想は、苦悩だらけの僕の人生を優しく照らしだす陽の光だった。フランクル自身が、強制収容所の生き残りということが、自然に尊敬の念を感じさせる。
(横道誠『ある大学教員の日常と非日常』晶文社、2022)
こんばんは。昨日は卒業式でした。PTA会長の祝辞、よかったなぁ。若かりし頃の苦悩を、その後の輝きとともに物語ってくれて、ある大学教員の言葉を借りれば、まさに卒業生のこれからの人生を優しく照らしだす陽の光だったように思います。発達界隈の人たちのこれまでの人生を優しく照らしだす、横道誠さんの本のように、です。
体験価値って、大事。
占いみたいなものじゃない?
卒業式に先立つ数日前、保育園のときのパパ友である絵本作家のYさんのアトリエに遊びに行きました。ある小学教員の非日常です。で、ここしばらく横道さんの本にドハマリしている私としては、当然、創作者の体感世界が気になるわけです。もしかしたらYさんも発達界隈の人なのではないかと気になるわけです。だってYさんは横道さんに勝るとも劣らないペースで作品をつくり続けている「過集中」の人であり、作家としてのアイデンティティに「こだわり」をもっている人でもあり、さらにいえば美味しいシラスの店を見つけたら毎回そこで食べたくなるという「同一性保持」の人でもあるからです。Yさんも、横道さんと同様に、自閉スペクトラム症の特性(過集中、こだわり、同一性保持、等々)をいくつも兼ね備えている当事者に違いない。そんなふうに推論して議論の俎上に載せたところ、ひとしきり盛り上がった後に、
占いみたいなものじゃない?
そう返ってきました。占いの心理学的効果として知られる、いわゆる「バーナム効果」ってやつです。誰にでも当てはまるような言葉を、自分のことだと思ってしまう、あれです。
なるほど。
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』を読みました。大学教員であると同時にASD/ADHDの当事者でもある著者が、コロナ禍とウクライナ侵攻の最中にどのような日常と非日常を送っていたのか。そのことがよくわかる一冊です。加えて、発達障害の特性が「占いみたいなものじゃない」こともよくわかる一冊です。以下、例によって各章(第1章~第6章)の私の「こだわり」ポストと、横道さんのやさしさあふれる「同一性保持」リポストより。
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第1章「コロナ禍時代の日常」に《発達障害があると「やりすぎ」の傾向が出る》とあり、やりすぎやこだわりといったASDの特性は、継続は力なりに繋がるし、為末大さんいうところの「努力は夢中に勝てない」にも繋がると思った。定型は発達に勝てない。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 10, 2024
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第2章「出国できませんでした」に《発達障害も発達するのだ》とあり、坂口恭平さんが発達障害のことを発達し過ぎ障害であるととらえていたことを思い出した。二人とも当事者の立場から発達障害のことを肯定的に語っていて、発達界隈へのエールだと思う。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 10, 2024
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第3章「中途半端な時間」に《興味を持ったものに対して過集中を起こし、夢中になりすぎるのが僕の欠点》とあり、「中途半端な集中 + 中途半端な夢中 = 中途半端な人生」だから、リフレーミングするまでもなくそれは利点というかASDの才能だと思う。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 11, 2024
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第4章「ウィーンとの合一」に《ウィーンで生活していると、僕自身も本来はのんびりとした性格だったことが思いだされてきて、日本での生き方を後ろめたく思いだしてしまう》とあり、発達障害にせよ摂食障害にせよ日本社会トリガー説はやはり捨てきれず。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 11, 2024
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第5章「学ぶことを通じてのみ」に《飽きっぽい注意欠如・多動症者は、冒険好きでもある》とあり、谷川俊太郎さんが「創造力とは飽きる力だ」と何かに書いていたことを思い出す。ADHDの特性はクリエイティビティに繋がる。横道さんがそのエビデンス。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 11, 2024
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』の第6章「旅行と戦争」に、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの短編小説『催眠術師』を引き合いにして《僕の人生のようにシュールレアリスティックだと感じる》とあり、超現実的な「日常と非日常」を追体験している読者になるほど確かにと思わせる。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 11, 2024
やはり、占いみたいなものではありません。ポストを読み返しながらそう思いました。
小学校の学習指導要領に各教科の「見方・考え方」が明示されているように、そしてそれらの「見方・考え方」が子どもたちの深い学びを促進すると言われているように、発達障害者にも特有の「見方・考え方」があって、その「見方・考え方」は彼ら彼女らの生活改善を促進するための「武器」になり得ます。副題にある「障害者モード」は「見方・考え方」とほとんど等価でしょう。横道さんは第4章「ウィーンとの合一」に次のように書いています。
僕はいまでは自分を障害者だと認識できているから、勘違いして「健常者モード」で行動するということがない。「障害者モード」でゆっくりと考え、慎重に体を動かし、自分をたっぷりとケアしてストレスを積極的に減らすことができる。久しぶりの海外生活でいかにも失敗しそうだったけれど、そのように意識して注意を高めたことで、日本で過ごすよりもむしろ失敗は少ないくらいだった。この「障害者」モードは発達障害者としての僕の究極のライフハック、意識変革を可能にする体験的知識の成果とも言えるだろう。
横道さんの本が、発達界隈の人たちのこれまでとこれからの人生を優しく照らしだす陽の光に思えるのは、発達障害者に特有の「見方・考え方」を具体的なエピソードとともに教えてくれるからです。冒頭の引用でいうところの「体験価値」の宝庫ということです。コロナ禍の最中にウィーンに出国しようとしたけれども失敗してしまった顛末が描かれている、第2章の「出国できませんでした」なんて、結論がわかっているのに、否、わかっているからこそ引き込まれるし、《障害があるということは、ふだんから被災しながら生きているようなものだ》ということもよくわかります。わかれば、減災につながる「見方・考え方」を手に入れることができるかもしれません。発達界隈の人も、そうでない人も、ぜひ読んでみてください。
横道誠さんの『ある大学教員の日常と非日常』読了。発達障害の当事者が普段どのようなことに苦労しているのかがよくわかると同時に、その埋め合わせ(?)としてのギフトのようなものを感じとることもできた。ASDやADHDゆえのギフトだ。旅行記としても秀逸。ウィーンに行きたくなった。#読了 pic.twitter.com/dwWTPV3n28
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 12, 2024
明日はウィーンではなく学校に行きます。本年度最後の休日出勤です。定時退勤に「こだわる」と休日出勤がもれなくついてくるという「同一性保持」に陥っているような気もしますが、とにかくもうひとふんばりです。
明日、「過集中」できますように。
おやすみなさい。