田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

横道誠 著『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』より。すこやかに自閉する。

 共同生活をするスナフキンは、不在のムーミン一家がとても恋しくなります。それはこの一家のメンバーのニューロマイノリティの特性が強く、それぞれの自閉度が高いからです。

 はっと急に、スナフキンは一家のことが恋しくて、たまらなくなりました。あのひとたちだって、うるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへ行っても、出くわします。でもいっしょにいても、ひとりっきりになれるんです。(『十一月』p.117)

 その自閉性の高さゆえに、一緒にいてもひとりきりの気分にさせてくれるニューロマイノリティたち。ニューロマジョリティはきっと、そんなニューロマイノリティの自閉性にしばしばさみしさや物足りなさを感じるかもしれません。
(横道誠 『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』集英社、2024)

 

 おはようございます。今日はこれから運動会です。運動会といえば、

 

 この疑問。

 

 なぜニューロマイノリティの子どもたちは運動会を嫌がり、ニューロマジョリティの子どもたちは運動会を好むのか。ニューロマイノリティの子を受けもったことのある担任であれば、一度は抱いた「なぜ?」なのではないでしょうか。

 ニューロマイノリティの典型だったかつての教え子のひとりは、当時、運動会のことを、練習も含め「1年の中でいちばんイヤな行事」と話していました。ちなみにネットを立ち上げ、検索ボックスに「発達障害」「運動会」と入力すると、予測ワードとして「支援」「休む」「つらい」「踊らない」「参加できない」と出てきます。自身もニューロマイノリティである横道誠さんの著書『発達障害の子の勉強・学校・心のケア――当事者の私がいま伝えたいこと』によれば、ニューロマイノリティの子どもを無理に運動会に参加させる必要はないとされています。が、保護者の要望もあるし、

 

 実際にはこれが難しい。

 

 不参加というかたちにすると個別対応が必要になります。しかし、11人しかいないサッカーチームと揶揄される日本の小学校には、一人の児童に一人の教員を割り当てる余裕はありません。また、見学というかたちにすると、どうやら《恋しく》なってしまうようで、フラフラしたり、友達にちょっかいをかけたりと、注目行動に出てしまうことがしばしばあります。だから、スナフキンのような成熟したニューロマイノリティであればいざ知らず、未成熟のニューロマイノリティに対しては、その《自閉性にしばしばさみしさや物足りなさを感じる》なんてことはほとんどありません。感じるのは、

 

 逸脱ベースの過剰さばかり。

 

 ムーミンの生みの親であるトーベ・ヤンソン(1914-2001)の《いっしょにいても、ひとりっきりになれるんです》はけだし名言であり、横道さんが推すところの「ハーモニーよりもポリフォニー」を想起させます。しかしそれは、その《いっしょ》が害されない限りにおいてのこと。運動会の「踊り」が邪魔されたのでは、それを楽しみにしていたニューロマジョリティの子どもたちにとってはたまったものではありません。残業代ゼロで「踊り」を計画し、指導している担任もたまったものではありません。では、どうすればいいのか。横道さんだったらこう言うでしょう。ヒントは《てんでバラバラな人たちが豊かな自閉的世界観をもち調和して暮らすムーミン谷》にあり。

 

 誰もが過ごしやすいクラスをつくるヒントがここに!

 

 

 横道誠さんの『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』を読みました。トーベ・ヤンソンのムーミン・シリーズを発達障害の視点で読み解いた当事者批評の書(横道さんならではの「読み」を味わえる一冊)です。トーベの世界観に迫るに当たって、横道さんは、トーベはニューロマイノリティだったのではないか、という仮説を立てます。別言すると、スナフキンにもミイにもムーミン一家にも、大なり小なり、ニューロマイノリティの特性が反映されているのではないかという仮説です。さて、どうなのでしょうか。以下、目次です。

 

 1 ムーミン誕生!
 2 シリーズ初期
 3 シリーズ中期
 4 シリーズ後期
 5 補足的視点

 

 途中と最後に2本のコラムが収録されています。畑中麻紀さんによるコラム「ぴったりの居場所がない人のために」と、二村ヒトシさんいよるコラム「大人のテーマが描かれている(ように僕には思える)ムーミン・シリーズ」です。横道さんの作品を読んでいるときにはよくそうしているように、今回もまた、各章ごとに、エックス(X)を通して感想をつぶやいてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 今回もまた、横道さんにその都度リポストしていただきました。エックス(X)のよい面だけを取り上げて好意的に解釈すれば、ムーミン谷と同じように、そこには豊かな自閉的世界が広がっているといえます。スナフキンのように《すこやかに自閉し、孤独のなかに生きて》いることができる世界です。では、小学校の教室はどうでしょうか。すこやかに自閉することができる、

 

 小学校の教室とは?

 

 そのような教室をイメージしにくいところが、小学校とニューロマイノリティの子どもたちとの相性の悪さと言えるかもしれません。すこやかに自閉することができる運動会も、ほとんどイメージできませんから。

 

支那そば(2024.10.4)

 

 一昨日の夜に立ち寄ったラーメン屋の店主(?)はちょっと自閉的な感じで、私が入ったときにはお客さんがゼロだったにもかかわらず、「いらっしゃいませ」も何もありませんでした。きっと、ムーミン谷の住人なのでしょう。横道さんの本を読み、そういった見方・考え方を働かせることができると、穏やかな気持ちでいられます。それに、「いらっしゃいませ」はなかったものの、おにぎり付きの志那そば、おいしかったなぁ。おそらく《じぶんの自閉性に逆らわず、こだわりを感じるものに集中することで》、あのスープの味を出しているのでしょう。

 

 じぶんの自閉性に逆らわず、こだわりを感じるものに集中することで想像力が湧きあがる。これがトーベの自閉的創作法でした。

 

 横道さんの『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』も、トーベの自閉的創作法と似た感じで創られているように思いました。タイトルの「なぜ」に対する「なぜならば」は、ぜひ手にとって読み、探してみてください。

 

 日曜日の運動会。 

 

 行ってきます。