ここでデリダに戻ってみます。
一方で、二項対立を組み立てることでひとつの意味を固定しようとするのが常識的思考です。たとえば「大人は優柔不断であってはいけない」といったもの。そこでは暗に子供的なあり方や、決断が揺らぐことが排除されています。そこに揺さぶりをかけると、「いや、別に優柔不断でもいい」、「必ずしも強い決断をすることがプラスとは限らない」といったことが出てくる。そういう揺さぶりをかけるのが脱構築的思考なのでした。
(千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書、2022)
こんばんは。授業でコラボしている大学の先生が、学期早々に「知り合いにパリ五輪で金メダルをとった選手が何人かいるんですが、今度連れて行ってもいいですか。ただ単に子どもと保護者と先生に金メダルをかけて写真を撮りたいだけです」って、そういう揺さぶりをかけてきて、
脱構築的に楽しい。
意味のわからないことをしようというのが、前々年度、前年度、そして本年度と関わり続けているその大学の先生との共通理解です。この授業のねらいは(?)とか、評価はどうするの(?)とか、何の教科でカウントするの(?)とか、そういう正しさは、
もうお腹いっぱい。
いや、別に意味なんてなくてもいい。意味のないことをすることが必ずしもマイナスとは限らない。むしろ意味のないことに夢中になれるという、辻仁成さんいうところの《子どもの頃はあったのに、大人になると無くなってしまう》能力を失わないことこそが、豊かな人生を送る上でのプラスであり、だからこそ《今の大人は子どもの自分を消してるからつまらんのよ》っていう坂口恭平さんの見方・考え方は、
脱構築的に正しい。
千葉雅也さんの『現代思想入門』読了。二項対立についてのデリダの見方・考え方は、坂口恭平さんが何かに書いていた「大人になるっていうのは、大人にもなるっていうことであって、子どもを消すわけではない」っていう話とよく似ている。デリダ、ドゥルーズ、フーコーなど、勉強になりました。#読了 pic.twitter.com/ckmH9sSTz1
— CountryTeacher (@HereticsStar) September 4, 2024
このポストを千葉雅也さんご本人がリポストしてくれました。いい人です。私小説の脱構築三部作と呼ばれる、千葉さんの『デッドライン』『オーバーヒート』『エレクトリック』も、
読もう。
千葉雅也さんの『現代思想入門』を読みました。タイトルの通り、現代思想の入門書です。現代思想というのは、60年代から90年代を中心に、ジャック・デリダ(1930-2004)やジル・ドゥルーズ(1925-1995)、ミシェル・フーコー(1926-1984)らによって展開された「ポスト構造主義」の哲学のことをいいます。千葉さんは、この3人のフランス人の見方・考え方を押さえることで、現代思想のイメージがつかめるといいます。そしてイメージをつかむことができれば、もしかしたら《人生をより活力あるものにする》ことができる、
かもしれない。
はじめに 今なぜ現代思想か
第1章 デリダ ―― 概念の脱構築
第2章 ドゥルーズ ―― 存在の脱構築
第3章 フーコー ―― 社会の脱構築
ここまでのまとめ
第4章 現代思想の源流 ―― ニーチェ、フロイト、マルクス
第5章 精神分析と現代思想 ―― ラカン、ルジャンドル
第6章 現代思想のつくり方
第7章 ポスト・ポスト構造主義
付 録 現代思想の読み方
おわりに 秩序と逸脱
以上が目次です。肝はもちろん、デリダ、ドゥルーズ、フーコーを主人公とした、第1章~第3章です。
現代思想の脱構築三人衆。
そうすると、最終的に次のような結論になる。まずマイナスなのは、「優柔不断=受動的=子供=軽い」です。そしてプラスなのは、「責任ある決断=能動的=大人=重い」です。
イヤな感じがするかもしれませんが、人が何かを主張するときには、基本的に、そこに含まれている二項対立をこんなふうに分析することが可能なのです。
第1章のデリダ、概念の脱構築より。基本的に思考の論理は二項対立(大人/子供、できる/できない、秩序/逸脱、健康/不健康、自然/文化、パロール/エクリチュール、等々)で組み立てられていることから、しかもどちらかがプラスでどちらかがマイナスとして組み立てたれていることから、そういった見方・考え方から脱しようというのがデリダの概念の脱構築です。教育に置き換えると、大村はま(1906-2005)いうところの「優劣のかなたに」(以下に一部引用)となるでしょうか。
優か劣か、
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを
教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり
教えひたっている、
そんな世界を
見つめてきた。
デリダもきっと、そんな世界を見つめていたのでしょう。大村はまの「優劣のかなたに」、あるいは坂口さんの「大人になる」ではなく「大人にもなる」というような見方・考え方を働かせることができれば、私たちも二人のように《人生をより活力あるものにする》ことができるかもしれません。
一見バラバラに存在しているものでも実は背後では見えない糸によって絡み合っている ―― という世界観は、1960ー70年代に世界中に広がっていった世界観だと思いますが、これを哲学的に最もはっきり提示したのがドゥルーズだと言えると思います。ドゥルーズには他にも論点が多数ありますが、まずはこうしたイメージで十分でしょう。
第2章のドゥルーズ、存在の脱構築より。一見バラバラに存在しているAもBも、実は見えない糸によって絡み合っているのだから「同一性は最初のものではない」「A VS. 非Aでも、B VS. 非Bでもない」というのがドゥルーズの見方・考え方です。
同一性と聞いて、小説家の平野啓一郎さんいうところの分人概念が頭に浮かびました。《たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である》というのが平野さんの分人概念です。同一性、すなわちたった一つの「本当の自分」など存在しない。それは常に「仮固定」である。まさに存在の脱構築ではないでしょうか。最近でいうと、スピノザの哲学をベースにした勅使川原真衣さんの《本来組み合わさってなんぼの人間》という見方・考え方も、存在の脱構築といえるかもしれません。人生をより活力あるものにするための「ライフハック」としては、次のようになります。
友人を選ぼう。
フーコーは、人間がその過剰さゆえに持ちうる多様性を整理しすぎずに、つまりちゃんとしようとしすぎずに泳がせておくような社会の余裕を言おうとしている。ドゥルーズの言う逃走線なるものを、具体的には社会のあり方として提示しているのです。
第3章のフーコー、社会の脱構築より。フーコーと聞いて教育関係者がすぐに連想するのは「パノプティコン」でしょうか。一望監視施設と呼ばれる、規律権力の狡猾さを説いたときに参照された、あれです。現在の管理社会だけでなく、教員の長時間労働のカラクリも、《権力は下から来る》というフーコーを読むと、より解像度が高くなり、その脱構築が一筋縄ではいかないことがわかります。さらに、人生をより活力あるものにしていくためには、過度な「ちゃんとしよう」から抜け出す逃走線を探りつつ、次に示すような千葉さん流のフーコー読解を大切にしていく必要があるということもわかります。
というのは要するに、変に深く反省しすぎず、でも健康に気を遣うには遣って、その上で「別に飲みに行きたきゃ行けばいいじゃん」みたいなのが一番フーコー的なんだという話です。
2日前の9月5日は母の誕生日でした。80歳になりました。明日、実家に帰ってお祝いをしてきます。手土産に買った日本酒、美味しいといいなぁ。
活力が出ますように。
おやすみなさい。