拠んどころなくこういう風に致しましたが、やはり昔のままの方がよいと仰るお方には、燭台を持って参りますという。で、折角それを楽しみにして来たのであるから、燭台に替えて貰ったが、その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そういうぼんやりした薄明かりの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されるということであった。
(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』角川ソフィア文庫、2014)
こんばんは。昨日、東京に帰省し、姉が予約してくれたギリシャ料理のお店でランチをしてきました。数日遅れの母の誕生日会です。チョコザップで鍛えているという母は、1944年生まれの80歳。
傘寿礼讃。
青と白のコントラストが美しいなぁ。たしか村上春樹さんが住んでたんだよなぁ。陰翳という概念の暗示すらなさそうだなぁ。食事をしつつ、店内を眺めつつ、エーゲ海を想像しつつ、そんなふうに思ったので、照明の仕事をしている姉に『陰翳礼讃』の話(冒頭の引用)を振って、「知ってる?」と訊ねたところ、当然とばかりに「知ってるよ!」と返ってきたので、びっくり。続けて姉曰く、
照明家のバイブルじゃん。
知りませんでした。谷崎潤一郎(1886-1965)の『陰翳礼讃』には、そういった位置づけもあるんですね。訊いて、よかった。バイブルという言葉を聞いて、バックパッカーのバイブルである沢木耕太郎さんの『深夜特急』を勧めてくれたのも、遠い昔のことですが、姉だったなぁと思い出しました。母にも姉にも感謝しかありません。
母姉礼讃。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読みました。照明家だけでなく、前回のブログで紹介したミシェル・フーコー(1926-1984)にも影響を与えた随筆的評論として、恐らくは世界的に有名な古典です。名前は知っているし、読もうと思えばいつでも読めるのに「読まずに馬齢を重ねてしまいました」というよくあるパターンの古典でもあります。やっと、
読んだぞ~。
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』読了。随筆的評論集。表題作「陰翳礼讃」に《美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える》とあり、勅使川原真衣さんいうところの《本来組み合わさってなんぼの人間》みたいな話だなと思った。漆器と燭台が組み合わさっての美。#読了 pic.twitter.com/dRZkwe1Bsc
— CountryTeacher (@HereticsStar) September 5, 2024
随筆的評論「集」とはいえ、薄いので、すぐに読めます。未読の方は、ぜひ。角川ソフィア文庫の『陰翳礼讃』には、表題作の「陰翳礼讃」の他に「現代口語文の欠点について」「懶惰の説」(らんだ、と読みます)「客ぎらい」「ねこ」「半袖ものがたり」「廁のいろいろ」「旅のいろいろ」が収録されています。白眉はもちろん、
「陰翳礼讃」でしょう。
思うに西洋人のいう「東洋の神秘」とは、かくのごとき暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう。
エーゲ海に代表されるような西洋の明るみに対して、東洋の日本には暗がりがあり、それこそが我が国のユニークなところだったというのが谷崎の主張です。つまり、昔の日本は暗かった。漆器の美しさも、風流だった廁のよさも、金蒔絵だったり僧侶が纏っていた金襴の袈裟だったりの「金」の有り難みも、その暗がりを前提としていた。暗がりがそれぞれの魅力を際立たせていた。造園技法でいえば、暗がりは「借景」のような役割を果たしていた。だから、
陰翳礼讃。
その前提が崩れ、西洋の明るみが入ってきた結果、陰翳の機微に触れる機会がほとんどなくなってしまった。ゆえに、文学を生業としていた谷崎は『陰翳礼讃』を書き、次のように閉めます。
私は、われわれがすでに失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域ヘでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。
せめて文学の領域へ、という谷崎のメッセージを受け取ったのが村上春樹さんです。村上さんの処女作である『風の歌を聴け』のラストを覚えているでしょうか。そうです、そこには《昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか》というニーチェの言葉が刻み込まれています。換言すると、
西洋の明るみに、日本の暗がりの深さがわかるものか。
そういった意味になるでしょう。まぁ、なりませんが。冗談はさておき、村上さんの作品に谷崎に通ずる何かがあるのは多くの人たちが認めることでしょう。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で第21回谷崎潤一郎賞をとっているくらいですから。
谷崎礼讃。
前にもちょっと触れておいたように、日本語の表現の美しさは、十のものを七つしかいわないところ、言葉が陰影に富んでいるところ、半分だけ物をいって後は想像に任せようとするところにあって、真に日本的なる風雅の精神というものはそこから発しているのである。
これは「陰翳礼讃」ではなく、「現代口語文の欠点について」より。谷崎は、言葉に対しても《陰影》という見方・考え方を働かせているというわけです。谷崎の『文章読本』も読んでみたくなりました。読んで、クラスの子どもたちにその要点を伝えたい(!)。ちなみに新潮文庫から出ている『陰翳礼讃』には『文章読本』がペアで入っています。
文筆家のバイブルじゃん。
詳しい人に訊いたらそう言うかもしれません。最後にもう一つ。以下は「半袖ものがたり」より。
事実、東京には半袖という言葉もなければ、ましてあのような服装などは知られていない。それは恐らく東京の夏があの不作法を大目に見るほど暑くないのにもよるのであろうが、そういう事情がないとしても、もともとイキや見えを貴ぶ東京の人々、ことに近ごろはインテリ趣味とかいうものが流行って、何事にも知識階級ぶることを喜ぶあの都会の市民たちにああいう低級な庶民くさい風俗が気に入るはずはないのである。
昨日、暑かったなぁ。昼の東京は明るすぎて暑すぎました。とてもじゃないけど長袖なんて着れません。巡りめぐって、今こそ暗がりを礼讃するべきではないでしょうか。
半袖礼讃&陰翳礼讃。
おやすみなさい。