田舎教師ときどき都会教師

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マルセル・モース 著『贈与論』より。この本自体が、贈与。

 われわれは、このような道徳と経済が今もなお、いわば隠れた形でわれわれの社会の中で機能していることを示すつもりである。また、われわれの社会がその上に築かれている人類の岩盤の一つがそこに発見されたように思われる。それらによって、現代の法と経済の危機が生む問題に関するいくつかの道徳上の結論を引き出すことが出来るだろう。そこに一時立ち止まろう。社会史、理論社会学、道徳上の結論、政治学や経済学の実践などを扱う本書は、結局もう一度新しい形態のもとに、古いが常に新しい問題を問うようにわれわれを誘うに過ぎない。
(マルセル・モース『贈与論』ちくま学芸文庫、2009)

 

 こんばんは。昨日、大学の先生をゲストに迎えてのコラボ授業を行いました。単発ではなく、卒業まで続いていく取り組みの「はじめの一歩」です。すでに前々年度から別の大学の先生ともコラボ授業を継続しているので、2つの大学の先生が学年の子どもたち(6年生)にかかわってくれているということになります。おそらく、

 

 レアです。

 

ラーメンと寿司のコラボ(2024.9.13)

 

 昨夜行ったラーメン屋もレアでした。寿司(定番5貫)とのコラボが絶妙すぎて、近いうちにまた足を運んでしまいそうです。

 

 他のラーメン屋でも真似をすればいいのに。

 

 食べながらそんなことを考えました。が、それはなかなか難しいのでしょう。ラーメンと寿司のコラボというアイデアを広め、形にしていくための枠組みがないからです。昨日、大学の先生とのコラボ授業を観に来てくれた、県庁の政策企画局で働いているというなんとかさんもそのようなことを話していました。他の小学校でも真似をすればいいのに、と。でも、同じような取り組みを広げていくためには制度上の枠組みが必要ですね、と。言うなれば《われわれの社会がその上に築かれている人類の岩盤》みたいな話です。私たちの振る舞いや思考は、どのような制度上の枠組みにアフォードされているのか。換言すると、私たちは、

 

 どのような岩盤の上に立っているのか。

 

 

 マルセル・モースの『贈与論』(𠮷田禎吾/江川純一 訳)を読みました。近内悠太さんの『世界は贈与でできている』を読んだ後に、古典中の古典だし、レヴィ=ストロースやバタイユやその他もろもろの知識人にも影響を与えているそうだし、それにモースの『贈与論』を読んだことがある小学校の教員ってなんかイケてる感じがするから、

 

 読もう。

 

 そう思って読み始めたのがいつだったのか、もう忘れてしまいましたが、とにかく頭に入って来なさすぎて途中で挫折してしまったんですよね。さすがは古典中の古典です。脚注が多すぎるし、近内さんの本と違ってリーダーフレンドリーじゃないし、マルティン・ブーバーの『我と汝』と同様に、おそらくは「単体ではなく思想史の流れの中で理解する」必要があるし、

 

 難しい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 難しいとはいえ、積ん読のままにしておくのもイヤなので、1週間くらい前にふと思い立ち、がんばって再チャレンジしてみました。古典とはそういうもの。チャレンジを繰り返し、少しずつ理解していくもの。だから、少しだけ理解できたことを綴っておきます。

 

 目次は以下。

 

 序 論 贈与、とりわけ贈り物にお返しをする義務
 第一章 交換される贈与と返礼の義務
 第二章 贈与制度の発展
 第三章 古代の法と経済におけるこうした原則の残存
 第四章 結論

 

 贈与は自発的なものではなく強制的なものであり、類別すると「与える義務」と「受け取る義務」と「返礼の義務」の3つ分けられる。まるで子どもたちに自発性を強いる教員みたいな話ですが、私たちが感覚として理解しているところの贈与とは少しニュアンスの異なるそれら3つの義務が、文明化されていないアルカイックといわれる社会(主にポリネシアやメラネシア、北米先住民などの社会)において、集団と集団をつなぐ役割を果たすとともに、集団間の争いを防いでいたというのがモースの発見です。集団と集団をつなぐためには、そして争いをなくすためには、未開社会における贈与という名の交換制度に学べ。そんなふうにも読めるでしょうか。共同体が空洞化したり、戦争を止められなかったりする現代の私たちへのメッセージというわけです。つまり、この本自体が

 

 贈与。

 

 だから受け取らなければいけません。近内さんが書いているように、贈与は、受取人の想像力から始まりますから。

 

 われわれは、こういう制度に「ポトラッチ」という名称を与えることを提案したい。危険を少なくし、より正確を期するために、やや長くなるが、それを「闘争型の全体的給付」と呼ぶことも可能であろう。

 

 モースの『贈与論』を理解するためのキーワードをひとつ挙げろと言われれば、おそらくそれは「ポトラッチ」です。Wikipedia で「ポトラッチ」を引くと、《太平洋岸北西部先住民族の重要な固有文化で、裕福な家族や部族の長が家に客を迎えて舞踊や歌唱が付随した祝宴でもてなし、物資を贈与する》と出てきます。要するに祭りです。Aという集団がBという集団を祭りに招待したり贈り物をしたりするのが与える義務、招待を拒否せずに祭りに参加したり連盟関係を結んだりするのが受け取る義務、そして祭りが終わってから今度は逆に祭りに招待したり物資を贈与したりするのが返礼の義務。それらをひっくるめて、制度としての「ポトラッチ」というわけです。

 

 与えることを拒み、招待することを怠ることは、受け取ることを拒むのと同じように、戦いを宣言するのに等しい。

 

 現代でいうところの結婚式をイメージすればわかりやすいでしょうか。同僚が結婚式に管理職を招待するかどうか迷っていましたが、つまりはそういうことです。私たちは依然として「贈与」という岩盤の上に立っている。だから、招待しないと、

 

 戦いを宣言することになる。

 

 まぁ、いつまで経っても改善されない労働環境のことを考えれば、すでに戦いを宣言されているようなものなので、招待するかどうかを迷ってしまうのも当然かもしれません。願わくば、贈与論に則って、まともな労働環境を与えてほしい。そうすれば、全力で受け取り、全力で返礼しますから。

 

 

 贈与における「義務」感はどのような力学で生まれてくるのか。そういった話も書かれています。ヒントは、贈与されるモノには霊的な力が宿っている、云々。この本にも、霊的な力が宿っているのでしょうか。何年かしたら、もう一度チャレンジして確かめようと思います。

 

 古典とはそういうもの。

 

 おやすみなさい。