田舎教師ときどき都会教師

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阿部彩 著『弱者の居場所がない社会』より。弱者の居場所がある教室をつくる。

 どのような状況にあっても、彼らが最後までかじりついていたのが「つながり」であり、「役割」であり、「居場所」であった。私たちが当たり前のように享受しているこれらが人間の生にとって、いかに大切なのか、いかに基礎的な存在なのか、それを彼らのエピソードを通して語っていきたい。
(阿部彩『弱者の居場所がない社会』講談社現代新書、2011)

 

 こんにちは。先週は7連勤でした。1週間前の日曜日は学区の行事に駆り出され、昨日は振休なしの土曜授業です。まぁ、日曜日も土曜日もそれなりに楽しめたし、土曜日に関していえば「きせき」にまつわるあれこれ(いつか書きます)もあったので、阿部彩さんいうところの《人間の生》はそれなりに充実していたのですが、いずれにせよ、

 

 イリーガル。

 

 7連勤なんて、コンビニのアルバイトにだってさせられないはずです。それに、職場における「つながり」と「役割」と「居場所」が濃くなればなるほど、家庭や地域におけるそれらは薄まっていって、

 

 アンバランス。

 

 イリーガルをリーガルに、アンバランスをバランスのとれたものにしていくことこそが、すなわち長時間労働をなくしていくことこそが、弱者の居場所がない社会をどうにかしていくための第一歩だと思うのですが、どうでしょうか。

 

 

 阿部彩さんの『弱者の居場所がない社会』を読みました。贈与論で知られる教育哲学者の近内悠太さんが、講演のときに紹介していた新書です。曰く「『世界は贈与でできている』を書くにあたって、参考文献としては表記しなかったものの、ものすごく影響を受けた一冊」とのこと。近内さんは、研究者である阿部さんが、客観的なデータよりも、むしろエピソードを中心に議論を展開していることに驚いたと話していました。物語の力を信じている近内さんらしい読み方です。

 

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 近内さんがそらんじていたエピソードがあります。ある公園にホームレスの男性4人組がいて、そのうちの一人は80歳をゆうに超えていそうな、寝たきりの状態のおじいちゃんだった。当然、そのおじいちゃんには介護が必要で、残りの3人がリアカーにそのおじいちゃんを載せて世話をしていた。4人とも赤の他人なのに。

 

 そんな中で、寝たきりの老人のおじいちゃんに一日三度食べさせ、濡れたタオルで拭いて身体を清潔に保ち、下の世話もし、雨から守り、暑さや寒さを調節し、そうやって4人は仲良くいきいきと暮らしていたのである。
 介護経験がある方であればわかるであろうが、これは並大抵のことではない。

 

 そのおじいちゃんが亡くなってしまった途端に、その3人はバラバラになってしまって、居場所としていた公園からいなくなってしまったそうです。おじいちゃんの存在が、そのグループのレーゾンデートルだったというわけです。役割があったから、つながれた。つながりがあったから、公園が居場所となり得た。そういったことでしょう。冒頭の引用にある「つながり」「役割」「居場所」という3つのキーワードについても近内さんは話題にしていました。弱者の居場所がある教室づくりを心がけている担任であれば、ピンとくるのではないでしょうか。

 

 目次は以下。

 

 プロローグ 社会的包摂と震災
 第1章 生活崩壊の実態
 第2章 「最低生活」を考える
 第3章 「つながり」「役割」「居場所」
 第4章 本当はこわい格差の話
 第5章 包摂政策を考える
 第6章 インクルーシブな復興に向けて

 特に、第4章が印象に残りました。未来の社会の担い手となる子どもたちに、私たち大人が語り続けなければいけない内容がたくさん書かれていたからです。

 

 ウィルキンソンの指摘が衝撃的であるのは、「格差」が大きい社会に住むことは、誰にとっても悪影響を及ぼしていると論じている点である。彼は、「格差」が大きいことが、「格差」の底辺の人、すなわち貧困や社会的排除の状態にある人々が多いことを意味するから問題であると言っているのではない。「格差」が大きいということ、そのこと自体が、社会にとって望ましくないという指摘をしているのである。

 

 格差を放置するということは、格差の底辺の人だけでなく、格差のトップにいる人たちにもマイナスの影響があるという話です。言い換えると、勉強のできない子だけでなく、勉強のできる子にもマイナスの影響があるという話です。だから『学び合い』で知られる上越教育大学大学院学校教育研究科教授の西川淳さんは、勉強のできる子たちに対して、勉強のできない子をサポートすることは「得だ」と言い続けるのでしょう。学力格差が大きいということ、そのこと自体が、教室にとって望ましくないという指摘をしているというわけです。

 

「格差」は社会における人間関係の劣化を促す。

 

 社会疫学者のリチャード・ウィルキンソンの確信です。「格差」の放置は、教室における人間関係の劣化も促す。現在、疫学だけでなく、社会政策学、経済学、社会学、福祉学など、さまざまな分野の研究者によって、ウィルキンソンの確信を裏付ける研究が蓄積されつつあるそうです。そういったデータが山ほどあるとのこと。だから、貧困や格差を手当てするための、

 

 社会的包摂が大事。

 

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 医師の西智弘さんも同じようなことを書いています。ちなみに社会的包摂の対義語は社会的排除であり、貧困が《低い生活水準である状態》を示す概念であるのに対して、社会的排除は《低い生活水準にされた状態》を示しています。つまり、格差の大きい社会では、排除する側と排除される側に分かれてしまっているということ。社会的包摂がなければ、その格差がさらに助長されてしまうということ。哀しいことに、

 

 教室でも同じということ。

 

 哀しいことに、攻撃性と社会格差の相関関係は、子どものデータでも確認できる。子ども同士の喧嘩、いじめ、仲違いのデータと、社会全体の所得格差には正の相関がある。

 

 哀しいことに、日曜日だけの休みでは体力が回復しません。イリーガルをリーガルに、アンバランスをバランスのとれたものに、そして弱者の居場所がない社会を弱者の居場所がある社会に。以前、近内さんが「これまでにないくらいに、ケアと利他と贈与という言葉に光が当たっている」と話していました。格差が広がっていることの裏返しに違いありません。ケアと利他と贈与による社会的包摂によって、社会も、教室も、

 

 変えていきましょう。

 

 一緒に。