やさしさの一人相撲から、二人相撲へ。
あなたと私が関わることで、私自身が変容する。私自身が救われることになる。
そんな理路を、一緒に進んでいってもらえたら。
(近内悠太『利他・ケア・傷の倫理学』晶文社、2024)
こんばんは。昨日、勤務校のお別れの会があり、何人かの同僚が職場を去って行きました。花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ。とはいえ、
寂しい。
そんなふうに思えるのは、近内悠太さんいうところの理路を、パーシャルとはいえ一緒に進むことができたからかもしれません。あなたと私が関わることで、私自身が変容する。マルティン・ブーバーの『我と汝』を想起させるこの理路を、クラスの子どもたちにも進んでいってもらえたら。ケアが混ざり合う教室で、変わっていってもらえたら。
嬉しい。
近内悠太さんの『利他・ケア・傷の倫理学』を読みました。処女作『世界は贈与でできている』から4年、待望の新刊&続編です。前作は「贈与」をキーワードにして「受け取るとはどういうことか」を論じた本。そして今回、主として「利他・ケア」をキーワードにして論じられているのは、
与えるとはどういうことか。
X上、最速レビューありがとうございます! https://t.co/XcLJWwIrBW
— 近内悠太 (@YutaChikauchi) March 26, 2024
一読者をケアする引用リポスト。これも「ケア」に入るでしょうか。近内さんは、まえがきの「独りよがりな善意の空回りという問題」において、曰く《ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと》、そしてベン図でいうところのケアの部分集合である利他については、曰く《利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること》と定義しています。
ケアの定義からわかることは?
相手の大切にしているものがわからなければケアはできないということでしょう。これは児童理解と児童指導あるいは児童支援はセットという話と同じです。児童理解が不十分なまま指導あるいは支援をしてしまうと、当該児童を傷つけてしまう可能性すらあります。
利他の定義からわかることは?
パッと思い浮かぶ例は「子育て」でしょうか。毒親は別として、自分の大切にしているものよりも、我が子の大切にしているものの方を優先しますからね、普通は。是枝裕和監督の映画のタイトルでいえば、
そして父になる。
なる、すなわち自己変容です。映画の内容を知らない人に簡単に説明すると、6歳の息子が産院で取り違えられていたことを知った家族の葛藤と成長を描いたドラマです。
父親役を福山雅治さんが演じているのですが、変わるんです。それこそ子どもを変えようとするのではなく、もちろん換えようとするのでもなく、自分が変わることで、別言すると劇を変えることで、傷を癒すんです。つまり、利他とは、相手を変えようとするのではなく、自分が変わること。まえがきの最後に、次のようなことが書かれています。
そして、利他を哲学していった先に、「利他とは相手を変えようとするのではなく、自分が変わること」という主張へと辿り着き、そこから「セルフケア」の構造が取り出されます。
映画『そして父になる』は、夏目漱石の『こころ』と同様に、セルフケアの物語だったんだ(!)って、今これを書きながら気付いたのですが、近内さんも利他を哲学していく中で(東京は品川にある隣町珈琲で毎月行われている連続講座で語り続けていく中で)、利他が自己変容につながることに気付いていきます。その気付きに至るプロセスがこの本の醍醐味です。そのプロセスには、尾田栄一郎さんの漫画『ONE PIECE』であったり、遠藤周作の小説『沈黙』であったり、松任谷由実さんの歌曲『ダンデライオン』であったり、宇沢弘文だったりカフカだったり寺田寅彦だったり、それからもちろん、近内さんの十八番であるウィトゲンシュタインの言語ゲームであったり、その他もろもろ、前作と同様に、
固有名詞&エピソードがいっぱい!
違いはといえば、前作が直線的に「深い学び」に到達したのに対して、今回の利他論&ケア論は螺旋的に「深い学び」に到達しているように映るというところでしょうか。読み応えがあるということです。ぐるぐると登っていった先に、
絶景が見えること間違いなし。
目次は以下。
第1章 多様性の時代におけるケアの必然性
第2章 利他とケア
第3章 不合理であるからこそ信じる
第4章 心は隠されている?
第5章 大切なものは「箱の中」には入っていない
第6章 言語ゲームと「だったことになる」という形式
第7章 利他とは、相手を変えようとするのではなく、自分が変わること
第8章 有機体と、傷という運命
第9章 新しい劇の始まりを待つ、祈る
僕らは「現在の私」を肯定できないから、過去を肯定することができない。近内悠太さんの新刊『利他・ケア・傷の倫理学』にそうあって、平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』に出てくる「過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」という台詞を思い出す。過去は変えられる。利他で。
— CountryTeacher (@HereticsStar) March 26, 2024
過去は変えられる。利他で。
利他で、すなわち自己変容で。第7章に《自己変容とは、物語文の予期せぬ改訂の別名である》とあります。改訂、すなわち東浩紀さんいうところの「訂正可能性」です。東さんは、本の帯に《「訂正可能性の哲学」がケアの哲学だったことを、本書を読んで知った。ケアとは、あらゆる関係のたえざる訂正のことなのだ》と寄せています。利他の哲学も、訂正可能性の哲学も、どちらも前を向かせてくれる哲学であるということ。おわかりでしょうか。クラスづくりも、そうありたい。
詳しくは、ぜひ手にとって読んでみてください。
おやすみなさい。