訂正する力は、そのような「事前承認」は求めません。単に「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承認を求める。それが訂正の行為です。だからそれは、ある観点では単なるルール違反です。
けれどもその違反がすごく大事なのです。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからです。
(東浩紀『訂正する力』朝日新書、2023)
こんばんは。私の「推し」である教育哲学者の近内悠太さんが、動画配信プラットフォーム「シラス」(By 東浩紀さん)を使って、2ヶ月ほど前から「近内悠太の文明論」を展開しています。サブタイトルは、
カクテルのように考える。
その近内さんが、しばしば松任谷由実さんの「ダンデライオン」に出てくる《傷ついた日々は 彼に出逢うための そうよ 運命が用意してくれた大切なレッスン》という歌詞を話題にするんです。そしてそれが、今回取り上げる「訂正する力」にも関係しているように思えるんです。
なぜ話題にするのか。
この歌詞が「あべこべの因果」を表わしているからです。時系列的には「過去 → 現在」なのに、この歌詞は「現在 → 過去」になっている。具体的には、現在の出逢いによって、過去の傷ついた日々の意味づけが変わっている。小説でいえば、平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』に出てくる《人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないんですか?》と同じモチーフを描いている。つまり、松任谷由実さん然り、平野啓一郎さん然り、
アルフレッド・アドラー然り。
心理学者のアドラーも、この「あべこべの因果」を彼の理論の柱のひとつとしています。別言すると、過去に重きを置く原因論を否定し、現在や未来に重きを置く目的論を提唱しています。
しかし、それはまずい。
草葉の陰でそう嘆いているのはフロイトです。フロイトはアドラーを軽蔑していました。現在や未来が Happy だからといって、過去が隠蔽されてしまったら、或いは抑圧されてしまったら、アイドルになれたのだからあのことはなかったことにしようって、いわゆる旧ジャニーズ事務所的な問題が起きてしまうからです。
では、どうすればいいのでしょうか。
東浩紀さんの新刊『訂正する力』を読みました。先行して発売された『訂正可能性の哲学』に書かれていることを実践するための手引き書です。哲学はよりよく生きるための学問ゆえ、実践とセットでなければ意味がないということでしょう。著者の本気度が表れています。
目次は以下。
第1章 なぜ「訂正する力」は必要か
第2章 「じつは・・・・・・だった」のダイナミズム
第3章 親密な公共圏をつくる
第4章 「喧騒のある国」を取り戻す
なぜ「訂正する力」は必要か。なぜならば「訂正する力」を日本は失ってしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまったから。失ってしまったというのは、かつては有していたということを意味します。「じつは」日本は訂正する力に優れた国「だった」、明治維新なんて典型だった、だからその力を取り戻しましょう。そういったことを主張するに当たって、東さんは「時事」「理論」「実存」の三つの視点から「訂正」することの意味を問います。
まずは時事。
本の中からではなく、教育分野から。現在、教員不足になっている原因の一端は、2009年に導入され、2022年に廃止された教員免許更新制にあります。しかしそのことを表立って謝った政治家や官僚は一人もいません。教員免許更新制が廃止になったときの文部科学大臣・萩生田光一さんは、廃止という言葉を使わず、発展的解消という意味で「制度を廃止するのではなく、より充実を目指す」と語っていました。東さんのいう《政治家は謝りません》のわかりやすい例でしょう。
政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。誤る(あやまる)と謝る(あやまる)はもともと同じ言葉です。いまの日本人は、誤りを認めないので謝ることもしないわけです。
教員免許更新制はもちろんのこと、いちど決めた「キャリアパスポート」もとっとと廃止にしてほしいというのが全国のほとんどの教員の願いです。
ちなみに東さんは、第1章の中に「訂正しない猪瀬直樹氏」という項目を立て、「東京の夏は五輪に適している」&「コンパクト五輪のはずだった」という元都知事の猪瀬氏の言葉を例に《これほどわかりやすく訂正する力が失われた例もありません》と書いています。が、前者はともかく、後者の「コンパクト五輪のはずだった」という言葉については、訂正すべきは、そして謝るべきは猪瀬氏ではなく猪瀬氏を追いやった「東京の敵」でしょう。以下のブログを、訂正の材料として、ぜひ。
時事については第1章に、理論と実存については第2章と第3章に主に書かれています(第4章は「応用」です)。理論と実存について、印象に残ったところをそれぞれ1つずつ以下に引きます。
まず、第2章より。
つまり、文系の知とは、本質的に「訂正の知」なのです。だからぼくたちは、21世紀になっても「プラトンはじつは・・・・・・と言っていた」「マルクスはじつは・・・・・・と言っていた」といった表現をするのですね。
マルクス云々のくだりで斎藤幸平さんの《さあ、眠っているマルクスを呼び起こそう》という言葉を思い出しました。呼び起こしてみたら、「じつは・・・・・・だった」という理論。斎藤さんがやっていることも「訂正の知」というわけです。実際、東さんも斎藤さんの『人新世の「資本論」』を引き合いにしています。
最初の話につなげれば、「アドラーはじつは・・・・・・と言っていた」「フロイトはじつは・・・・・・と言っていた」という表現をし続けるということが大切だということです。
次に、第3章より。
周りに「余情の情報」の場をつくること。そのために時間に余裕をもつこと。それが訂正の梃子になります。
教員が時間に余裕をもっていないことと学校の労働環境が訂正されないことはつながっている。そういうことでしょう。事前承認なしに「この労働環境はおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承認を求める、なんてこともできず、教員の実存は軽んじられたまま。って、これだけでは「余情の情報」がなく、何のことを言っているのかわからないと思います。だからぜひ、
手にとって読んでみてください。
おやすみなさい。