そして20世紀が終わるころには、そもそもソ連が崩壊したこともあり、大きな物語のような発想はほとんど支持されなくなった。1971年生まれのぼくは、学生時代にまさに「大きな物語の終わり」を叩き込まれた世代にあたる。人類の歴史にまっすぐな進歩なんてないし、なにが正しくなにがまちがっているかについても単純に判断できるわけがない。それがぼくの世代の本来の常識だ。
ところが21世紀に入ると、その大きな物語の発想が新たな装いのもとで復活し始める。ただしこんどの物語の母体は、共産主義のような社会学科ではない。情報産業論や技術論である。支持母体も政治家や文学者ではなく、起業家やエンジニアだ。ひとことでいえば、文系の大きな物語が消えたと思ったら、理工系から新しい物語が台頭してきたわけである。
(東浩紀『訂正可能性の哲学』ゲンロン、2023)
こんばんは。4月の学級開きからちょうど半年が経ちました。たった半年とはいえ、学級の歴史にまっすぐな進歩なんてないし、なにが正しくなにがまちがっているかについても単純に判断できるわけがありません。だからこそ、残りの半年も学級を開き、具体的には「観光客」を招き、東浩紀さんいうところの「訂正可能性」を消去することのないよう心がけていきたいと思っています。そうでないと、教育のゲームから命令のゲームへと、自分でも気がつかないまま移動してしまうことがありますから。ここでいうゲームというのはもちろん、
ウィトゲンシュタインの言語ゲームのことです。
東京都は「教職の魅力をPRするゲーム」をしているつもりだった。しかし第三者の目には「教職のブラックさを喧伝するゲーム」をしているように映っていた。おそらくはそういうことでしょう。先日、本年度の教員採用試験(東京都、小学校)の倍率が過去最低の1.1倍を記録したというニュースを目にしたときに直観しました。東京都に限った話ではありません。私が勤務している県を含め、日本全国、どこもかしこも持続性を損なう別のゲームをやっちゃっている。
なぜでしょうか。
それはおそらく、閉じているからでしょう。文部科学省も教育委員会も、当然、学校もです。閉じているから「観光客」がやって来ない。やって来ないから「誤配」や「訂正」が起きない。訂正可能性に開かれていないから休憩時間が平均1分みたいな状況が続いてしまっている。だから教員不足になり、採用試験の倍率も下がっていく。そして、さらに閉じる。そういった悪循環です。
第1部「家族と訂正可能性」読了。ルキノ・ヴィスコンティの「永遠に変わらないためには、変わり続けなければならない」という言葉を思い出す。東浩紀さん曰く《正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能性なことのなかにある》云々。やはりカッコいい&学級づくりの正義にも通ずるφ(..)
— CountryTeacher (@HereticsStar) September 26, 2023
あとがきを含め、東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』読了。ジョン・デューイの『人間性と行為』に《鶏は卵に先行する。だが、それにもかかわらず、この特殊な卵は鶏の将来の型を変えることのできるように扱われるかもしれないのである》とある。卵=子供、鶏=社会とすると、教育こそまさに訂正可能性。
— CountryTeacher (@HereticsStar) September 30, 2023
学校を開くために、子ども食堂界隈で「教育居酒屋」と呼ばれる場づくりが始まっています。教員と外の人たちのあいだに「弱いつながり」をつくることを目的とした場です。NPO職員が観光客的に語る教育、会社員が観光客的に語る教育、議員さんが観光客的に語る教育、個人事業主さんが観光客的に語る教育。みんな違って、みんないい。郵便的誤配を生み出すという意味でも、訂正可能性に開かれるという意味でも、
めっちゃいい。
東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』を読みました。ダブルの名著『観光客の哲学』&『一般意志2.0』の続編という位置づけです。目次は以下。
第1部 家族と訂正可能性
第1章 家族的なものとその敵
第2章 訂正可能性の共同体
第3章 家族と観光客
第4章 持続する公共性へ
第2部 一般意志再考
第5章 人工知能民主主義の誕生
第6章 一般意志という謎
第7章 ビッグデータと「私」の問題
第8章 自然と訂正可能性
第9章 対話、結社、民主主義
第1部にはトッドやポパー、ウィトゲンシュタインやクリプキ、ローティやアーレントなどが登場し、第2部にはルソーはもちろんのこと、ドストエフスキーやバフチン、それからトクヴィルなども登場し、彼ら彼女らの見方・考え方が「訂正可能性」という言葉によってきれい結び付けられ、東さんの主張につながっていきます。その結び付け方が、
美しい。
要約を許さないくらい美しい。だからざっくり書きます。『観光客の哲学』で論じた「家族」も、『一般意志2.0』で論じた「一般意志」も、閉じたものではないんですよ、絶対的なものでもないんですよ、訂正可能性に開かれたものなんですよ、訂正というのは変わるということですよ、ちなみに著者も変わり続けていますよ、変わらないために変わり続けていますよ、それが東さんの主張です。
著者の変化についてだけ、以下に少し。
12年前のぼくは落合や成田に近い考えを抱いていた。
落合というのはメディアアーティストの落合陽一さんのこと、成田というのは経済学者の成田悠輔さんのことです。近い考えというのは「人工知能民主主義」のことで、冒頭の引用でいうところの「理工系から台頭してきた新しい物語」のことです。
落合さんと成田さんは、今、その新しい物語を信じているように見える。12年前の東さん、すなわち『一般意志2.0』を書いたときの東さんも、AI(人工知能)への期待ゆえ、+α で「熟議」をセットにすることを求めてはいたものの、両者に近い見方・考え方を働かせていた。でも、
今は違う。
人間ではなくAIに判断を任せたところで、あるいはAIが一般意志に近づいたところで、訂正可能性を消去してしまっては、民主主義はおそらくうまくいかない。ルソーがそうであったように、人間はもっと複雑で、社会ももっと複雑で、いつでも変わりうるものだから。カッコよくいえば《一般意志の構想は、訂正可能性の思想によって補われねばならない》というわけです。もっとカッコよくいえば、
民主主義の本質は喧騒にある。終わることのない対話が一般意志を取り巻くことで、統治は健全なものになる。
学校に置き換えると、単純に「静かな教室」「静かな職員室」ではダメだということです。それは最近読んだ池田賢市さんの『学校で育むアナキズム』にも書いてありました。もっとしゃべろうよ、と。
もっとしゃべろうよ。
教育居酒屋はそんな感じです。で、もっと書こうよ、とも思っているのですが、紹介したいところがありすぎて、読んでいるときに考えたことも多すぎて、うまくまとめることができません。とはいえ、ブログって、後からいつでも書き換えることができるんですよね。つまり、
このブログも訂正可能性に開かれている。
おやすみなさい。