ところが、このように学校にとって大切であるはずのチャイムをなくす取り組みをしている学校がある。しかも、それほど珍しくなくなってきているようだ。これは、アナキズムにとって朗報かと思いたくなるのだが、実はそうではない。子どもたちの自由を保障するものではなく、実態をもっと悪い方向に進めてしまう実践なのである。なぜなら、チャイムをなくすことによって、他者から時間を知らされなくとも、自分でしっかりと時間管理をする習慣を身に付けさせるためだからである。この目的を知ったときのわたし自身の驚きと落胆は、かなり深刻であった。チャイムがなくなることで、わたしは、「今日はひたすら図書館で歴史の本を読むぞ~」とか、「カーブを投げる練習を徹底的にする!」といったようなことが実現するのかと思ったからである。
(池田賢市『学校で育むアナキズム』新泉社、2023)
こんにちは。先週、6弦フレットレスベースの名手である服部龍生さんのソロライブを観に行きました。かれこれ7回目です。すっかりアディクテッドです。8回目の「こんばんは」も間違いありません。
今夜はひたすらカフェで龍生さんの音を聴くぞ~。
会場は神楽坂のカフェでした。キャパの大きなライブハウスではなく、気軽に「こんばんは」と声をかけ合えるカフェやバーで場づくりをするのが龍生さんのスタイルです。国内のみならず、アメリカでも台湾でもイギリスでもフランスでもスペインでもお客さんを呼んで演奏できちゃうくらいの腕前の持ち主が目の前でフレンドリーに話しかけてくれるのだからたまりません。
関係性に価値を置いているんですよね、龍生さんは。おそらくはアナキズムでいうところの《支配関係の否定とそこから浮かび上がってくる秩序(相互扶助)への信頼》があるのでしょう。リピーターの人たちが龍生さんのことを「めっちゃいい人です」というのもわかります。ちなみに「めっちゃいい人です」と口にしていた人たちもめっちゃいい人そうでした。まさに、
How wonderful my life with you is !
大好きな曲のタイトルです。池田賢市さんが学校で育みたいというアナキズムをかたちにしているのが龍生さんなのかもしれません。
池田賢市さんの『学校で育むアナキズム』を読みました。服部龍生さんを大きなアナキストとすれば、子どもは小さなアナキストなのだから、もっと子どもに任せましょうよ、という主旨の一冊です。
アナキズム ≒ 信頼して任せる
本の帯には《相互に信頼し合うために日頃から「おしゃべり」をして、「縦の命令系統」ではなく、「横のつながり」をつくる》とあって、教育でいえば、西川純さんの『学び合い』と似ているな、と。医療でいえば、西智弘さんの『社会的処方』と似ているな、と。ついでに書いておくと、私の「クラスづくり」に似ているな、と。縦よりも横や斜めのつながりをつくることに重きを置いているからです。
教師が教えるよりもつながりが効く。
薬を処方するよりもつながりが効く。
目次は以下。
序 章
第1章 国家観・社会観
第2章 人間観・個人観
第3章 学校の秩序形成作用
第4章 アナキズムによる学校再生
終 章 解放とアナキズム
ざっくりいうと、統治者を必要とするホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」という社会観・人間観ではなく、統治者を必要としないプルードン的な「権力支配を排除した相互扶助」という社会観・人間観もありますよ(!)というのが第1章と第2章です。
アナキズムはもちろん後者。
そしてそのアナキズムの社会観・人間観を拠り所にすれば、おそらくは前者の社会観・人間観によって生み出されている「子どもの不登校&教員のメンタル疾患」が減って、学校教育は別の可能性を手に入れることができますよ(!)というのが第3章と第4章であり、著者の見立てでもあります。
冒頭の引用は第4章からとりました。アナキズムの知恵を借りると、ノーチャイム制の見方・考え方が変わって、ベンサムのパノプティコンみたいなものに思えてくるから不思議です。
あっ、思いっきり権力だ。
アナキズムのポイントは《権力関係によらない秩序形成》です。だから池田さんがそう主張するように、「ノーチャイム制」と「子どもに任せる」はイコールの関係にはありません。
あっ、似て非なるものだ。
わたしはこの本を通して、「子どもに任せる」ことをアナキズムから得た教育的意義として実践論的に展開していけないだろうかと考えているのだか、いまの学校というフィルターを通すと、「任せる」の意味が変質してしまう。つまり、外側から当てはめられた枠組みを、子どもたち自身が自ら進んで維持していくことが期待されており、それを「子どもに任せる」と呼んでいるのである。そして、そのような実践が、子どもたちの「自主性を育てる」教育とされていく。つまり、自らを抑圧していく「まなざし」を自らの中に植えつけ、習慣化するということである。これは、子どもたちの「従属性(隷従性)」を高める教育である。従属性を高めれば、学校(教員)は直接指示せずとも、子どもたち自身が、進んで自らの自由を捨て去る行動をしてくれるわけである。実に手間の省ける「個人」の誕生である。
これも第4章より。うん、その通り。確かに、ノーチャイム制を始めとする学校のあれこれには、任せるふうを装っておきながら、裏で教員が傀儡師の役割を果たしているケースが多々あります。
でも、もやもやします。
自らを抑圧していく「まなざし」ではなく、他者とのかかわりを通して自らをコントロール(感情制御)していく「まなざし」を自らの中に育み、習慣化することを「自主性を育てる」教育と呼んでいる、と表現する方が現在の学校に近いような気がするからです。さらに、そういった意味では、実に手間の省ける「分人」が誕生している、と表現した方が、
現状、収まりがよい。
ちなみに「分人」というのは、《たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である》という見方・考え方、つまり相手によってあなたは変わりますよねという造語で、そのことは作家の平野啓一郎さんが『私とは何か ―「個人」から「分人」へ ―』や『ドーン』などに詳しく書いています。
ノーチャイム制についての書きぶりに限らず、ところどころもやもやしたのは、小学校についていえば、ホッブズ的なそれからプルードン的なそれ(つまりアナーキズム)へと、パーシャルとはいえ、学校教育の拠り所が変わっていっていることを私が長きにわたる教員生活の中で体感しているからでしょう。子どもの不登校と教員のメンタル疾患については、増加の一途で、辻褄が合いませんが……。
終章に、「黄金の3日間」を引き合いにして、次のように書かれています。
ところが、学校は、この「ぶつかり合い」を避けようとして、最初の3日間で外側から枠を与え、相互交流が起きないように引き締めにかかる。
なんてことは、まるでない。
ちょっとした枠は与えるかもしれませんが、相互交流に関しては、むしろそれが起きやすいように、ひたすら「おしゃべり」の時間を設けている学校というか教室がたくさんあるのではないでしょうか。少なくとも私のクラスはそうです。コミュニケーションの量を増やすことは、子どもたちによる秩序形成作用を期待する上で、欠かせない手段のひとつだからです。
足りないからこそ見えてくるものがある。
演奏の合間のトークのときに、龍生さんがそう話していました。ベース一本だとどうしても「足りなさ」が生じてしまう。でもね、という意味です。教員不足によって見えてきたものは何でしょうか。働き過ぎで、プライベートの時間が足りなくなることによって見えてきたことは何でしょうか。それはきっと、
もっと子どもに任せればいいということ。
How wonderful my life with you is !