幹から枝が生え、枝から小枝が生えるように、豊饒なる主題から、あまたの章が生まれる。
前章でふれたクロッチについては、独立の章をもうけて論じる価値がある。それは先端が三叉に割れた特殊な形態をもつ棒で、長さが二フィートほどあり、ボートの舳先近辺の右舷舟べりに垂直にさしこまれ、その三叉のところに銛の木製の柄の末端をのせ、その先にある抜き身の「かかり」のついた鋼鉄製の刃先をやや上向きに傾斜させて舳先から突き出しておくための仕掛けである。
(メルヴィル『白鯨(中)』岩波文庫、2004)
こんにちは。幹から枝が生え、枝から小枝が生えるように、教育という豊饒なる主題から、あまたのブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)が生まれ、沈みかけているのが学校です。どうかしてる、度を超してる、わかりますか(?)って、髭男じゃなくても歌いたくなります。何の価値もない土曜授業という枝は切ればいい。何の価値もない宿題という小枝も切ればいい。学校はもっと、
Anarchy でいい。
土曜授業終了。振休はなし。教員不足と不登校が社会問題になっているのに週6で出勤&登校させるなんておかしい。池田賢市さんの『学校で育むアナキズム』に《学校生活が長くなればなるほど、子どもたちは、考えることができなくなってくる》とある。週6+教員は残業、児童は宿題。とにかくおかしい。 pic.twitter.com/vMf4sA5Vum
— CountryTeacher (@HereticsStar) September 9, 2023
アナキズムという言葉を使わなくてはいけないくらい、秩序の加護に飼われ、学校は「前へ倣え」や「右向け右」みたいな世界になっているというわけです。子どもだけでなく大人もです。従順さと知性は違うのに。『白鯨』の訳者である八木敏雄さんが、下巻の解説に《「小説」とは、つまるところ「何でもあり」なのだ》と書いていますが、別言すれば、「教育」だって、つまるところ「何でもあり」でしょう。学校はもっと、
Anarchy でいい。
メルヴィルの『白鯨(中)』を読みました。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と同様に、読み通すのが難しいとされる小説です。が、読破まで残り3分の1。何とか読み通せそうな気がしてきました。
なぜ読み通すのが難しいのか。
長いからではありません。良し悪しは別として、物語外の話題が頻繁に出てくるからです。もしも小学校でいうところの「指導案検討」のような場があったとしたら、「ここ、要らないんじゃない?」と指摘されるはずです。ちなみに私は指導案検討が大嫌いです。エイハブ船長がモビィ・ディックに抱いている感情と同じレベルで嫌いです。エイハブはモビィ・ディックによって片足を奪われ、ある意味人生も奪われました。私は指導案検討によって、過去、貴重な時間を何度も何度も奪われました。許せません。メルヴィルは『白鯨』を出版するにあたって《三階の一室にこもり、わが『鯨』の仕事に奴隷のように取りくみ、できたはなから印刷機にかけています》と述べていたそうです。つまり「指導案検討」に当たるようなことは何もしなかったということです。しなかったから、
この傑作が生まれた。
学校に置き換えると、指導案検討をしなかったから、授業者らしい授業が生まれた、となるでしょうか。教育学者の佐藤学さんもこう言っています。
授業の研修に必要なのは回数である。二つや三つの研修で授業について深く学び合うことは不可能である。何十回という事例研究を経て、互いに深く学び合うことができる。そのためには、もっと日常的な授業のなかに研修を位置づける必要がある。しかも、授業の研修において重要なのは、事前の検討よりも事後の反省であり授業の事実からの学び合いである。事前に時間をかける必要はないが、事後の検討にはたっぷり時間をかける必要がある。どんな授業でも、そこから学ぶべき事柄は五万とあるのである。
名著『授業を変える 学校が変わる』からの引用です。学校が変わるためには、時間配分を変える必要があるということです。ちなみにそれは人間も同じです。あなたが変わるためには、時間配分を変えなければいけない。
人間が変わる方法は3つしかない。一つは時間配分を変える、二番目は住む場所を変える、三番目は付き合う人を変える。この三つの要素でしか人間は変わらない。もっとも無意味なのは「決意を新たにする」ことだ。かつて決意して何かが変わっただろうか。行動を具体的に変えない限り、決意だけでは何も変わらない。そして、時間、場所、友人の中でどれか一つだけ選ぶとしたら、時間配分を変えることがもっとも効果的なのだ。
経営コンサルタントの大前研一さんが『時間とムダの科学』にそう書いています。サブタイトルは、
仕事の半分は「見せかけ!」
やってる感を出すために膨大な時間をムダにしている学校現場にも当てはまる副題ではないでしょうか。で、そろそろみなさん、こう思っていますよね。
いったい何の話だ、と。
メルヴィルの『白鯨』のブログじゃないのか、と。そうなんです。『白鯨(中)』もこんな感じなんです。全41章から成る『白鯨(上)』は、ストーリーを軌道に乗せるためにナラティブの占める割合が多かったのに対して、全48章から成る『白鯨(中)』は、冒頭に引用した《クロッチ》の例のように、当時の捕鯨技術の描写などのストーリー外の脱線がけっこうな割合で起きて、ページをめくる手が止まってしまうんです。しばしばそれは、
学術書のよう。
人間はランプに燃料を提供する鯨を食べ、なおかつスタッブのように、いわば、その光のたすけをかりて鯨を食べる。これはいかにも言語道断なことゆえ、いささかその歴史と哲学についてのべておく必要があるだろう。
第65章の「美食としての鯨肉」より。この後は《記録によれば、三世紀ほどまえのフランスではセミ鯨の舌は珍味とされ、高値をよんでいた》と続いていきます。これなんかはストーリーと全く関係ないわけではありませんが、いずれにせよ《小枝》であることに変わりありません。小枝ですらないような脱線については、訳者の八木さんですら《これは物語内物語というより物語外物語だ。これは頭が痛くなるような問題ゆえ、あとは読書諸氏がそれぞれにおかんがえいただきたい》とさじを投げていて、うけます。まさに、
Anarchy.
とはいえ、その小説作法にこだわらないアナキズムこそが、『白鯨』の魅力のひとつなんですよね、きっと。
学校もそうあってほしい。
さて、最後にナラティブのことも紹介しておくと、脱線を挟みつつも、モビィ・ディックとの運命の対決に向けて、つまり下巻に向けて、上巻にはなかった捕鯨の場面がいくつも描かれているところが中巻の魅力です。
「死んだようです、スタッブさん」タシュテーゴは言った。
「そうらしいな。あいつのパイプも、おれのパイプも火がつきたか!」そう言うと、スタッブは口から自分のパイプを抜き、その火の消えたはいを海にまき、しばらくのあいだ立ったまま、おのれがしとめた巨大な鯨の死体を物思わしげに見つめていた。
第61章の「スタッブ、鯨をあげる」より。この章の締めの部分ですが、直前までの手に汗握る展開が想像できるのではないでしょうか。ぜひ、手にとって読んでみてください。下巻の頂上決戦(?)に向けて、
いやが上にも高まる期待。
これから下巻です!