田舎教師ときどき都会教師

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メルヴィル 著『白鯨(下)』より。もしもエイハブ船長がサードプレイスから白鯨のことを考えていたとしたら。

凪のあとには嵐があり、嵐のあとには凪がある。人生はただ事もなく一直線にすすむことはない。人生は階段をのぼるように進行し、それをのぼりつめたところで、はい、おしまい ―― というようなものではない。幼児期の無意識の魅惑、少年期の盲信、青年期の迷い(これは避けがたい宿命である)、それから懐疑主義、つぎに不信、そして最後に壮年期の『もしも』という優柔不断な思考の終着点に到達して、はい、おしまい ―― というわけにはいかないのだ。一度この過程をふむと、またその過程をくりかえすのだ ―― 幼児、少年、おとな、『もしも』を永遠にくりかえす。
(メルヴィル『白鯨(下)』岩波文庫、2004)

 

 こんばんは。以前、もうすぐ喜寿を迎える作家さんに「ライフチャート」を見せてもらったことがあります。みなさんは、やったことがあるでしょうか。縦軸に幸福度、横軸に年齢をとって、例えば大学入試に失敗したときはちょっとマイナスだったな、我が子が生まれたときはけっこうなプラスだったな、みたいな感じでフリーハンドで曲線を描いていく、

 

 あれです。

 

ライフチャートの雛形の例

 

 ギザギザだったんですよね、その作家さんのライフチャートが。しかも50代以降に最大の山と最大の谷が短いスパンで何度もやってくるという、現在進行形の波瀾万丈の人生なんですよね。エイハブ船長がそう言っているように《凪のあとには嵐があり、嵐のあとには凪がある》というわけです。

 

 人生、まだまだこれからです。

 

 作家さんはそう話していました。いろいろあった方がおもしろいよ、とも言っていました。アラサーだったりアラフォーだったりアラフィフだったりに向けての「50代以降も素晴らしいよ」というメッセージでしょう。人生の先輩たちが楽しそうに生きていると、

 

 勇気付けられます。

 

 

 エイハブ船長も50代後半です。最初に鯨をしとめたのが18歳のとき。それから《間断なく鯨を追う40年!》。もしもエイハブ船長がライフチャートを描いたとしたら、最大の山(プラス)と最大の谷(マイナス)はどこにくるのでしょうか。最大の谷は容易に想像できます。モビィ・ディック(白鯨)に片脚を食いちぎられたときの年齢です。では、

 

 最大の山は?

 

 

 メルヴィルの『白鯨(下)』を読みました。読みましたというか、読破しました。1851年に出版されて以来、多くの人たちに読み継がれてきた、アメリカを代表する長編小説。やっとの思いで、私もその読み継いできた読者のひとりに加わることができたというわけです。長い航海でした。あまりにも長かったので、中巻を読んでいるときに下巻を開き、翻訳者・八木敏雄さんの解説(2004年11月)を先に読んでしまったくらいです。

 

 これがまた、よい。

 

しかしながら、ロレンスが白人の本性の象徴とも、白人の「精神」の化身とも見立てた白鯨は、白人が支配する国のアイコンでもある白人の船を沈めながらも、まったく無傷ではないにもせよ、どうやら不死身であるかのように泳ぎ去る。これをどう読むか。おそらく読者の頭の数ほどの読みがあるだろう。しかし『白鯨』はいかなる読みにもいささかもたじろぐことなく、これからも悠然と豊饒な言語の海を泳ぎつづけていくことだろう。『白鯨』は本質的にアレゴリカルな作品であり、しかも多重にアレゴリカルなそれなのである。

 

 ロレンスって誰(?)という話はさておき、ここで確認しておきたいことは、国語の物語文でいうところの「解釈の多様性」に開かれまくっているのが『白鯨』であるということです。ちなみに八木さんは、2004年当時の世相を反映して、ブッシュをエイハブに、オサマ・ビンラディンを白鯨に、ピークオッド号を「アメリカ合衆国」そのものに見立て、寓話としての『白鯨』という読みもありだよね、というようなことを書いています。だから例えば「モビィ・ディックを殺したところで、船長のエイハブの人生が好転するとは思えない」という読みも、あるいは「エイハブ船長のライフチャートに大きな山があったとは思えない」という読みも、

 

 当然、あり。

 

そうだ、しかり、40年にわたって、このエイハブはなんと愚かな ―― 愚かな ―― 愚かな年をかさねたたわけ者であったことか! 鯨の追跡のために、なぜあれほど血道をあげたのか? オールをこぎ、銛を打ち、槍を投げるために、なぜあれほど腕を酷使し、痛めつけ、萎えさせたのか? そのためにエイハブはどれだけ豊かになり、どれだけまともな人間になったというのか? 見るがよい、おお、スターバックよ! こんな重荷を負った男が、なぜ脚まで一本うばわれねばならぬのか?

 

 仕事しかしてこなかった人間の末路、という寓話はどうでしょうか。エイハブは50を過ぎてから若い女と結婚しますが、すぐに海に戻ったために《そうだ、わしはあの娘を結婚すると同時に未亡人にしてしまったのだ、スターバック》と嘆いています。嘆きたいのは一等航海士スターバックの方でしょう。なぜ、仕事しかしてこなかったような船長に雇われてしまったのか、と。なぜ、サードプレイスに足を運んだことのないような船長に雇われてしまったのか、と。サードプレイスから白鯨のことを考えれば、船上から考えるそれとは違う見方・考え方を働かせることができたのに。復讐の愚かさにだって、気付くことができたかもしれないのに。

 

 しかし、後の祭りです。

 

 学校に置き換えると、仕事しかしてこなかった校長のもとで働く教員の末路、という寓話はどうでしょうか。船長を校長に、船体を学校に見立て、寓話としての『白鯨』という読みを試みれば、どんな人物が校長に相応しいのかがわかります。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 もしもエイハブ船長がサードプレイスから白鯨のことを考えていたとしたら、スターバックがピークオッド号とともに水没することもなかったでしょう。スターバックがスターバックスの名前の由来になった所以、おわかりでしょうか。ちょっと無理があるものの、「ブログ」とは、

 

 つまるところ「何でもあり」なのだ。

 

 おやすみなさい。