田舎教師ときどき都会教師

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松村圭一郎 著『くらしのアナキズム』より。国家が、あとからやってきた。学校も、あとからやってきた。

「国家」について意識しはじめたのは、22歳で訪れたエチオピア西南部のコンバ村でのことだ。当時60代半ばだった農民男性、アッバ・オリは、彼の人生と村の歴史について教えてくれた。それはとても衝撃的だった。国家が、あとからやってきた・・・・・・・・・・からだ。
(松村圭一郎『くらしのアナキズム』ミシマ社、2021)

 

 こんばんは。先週の木曜日に池上本門寺の御会式(おえしき)に行ってきました。日蓮宗の開祖である「日蓮聖人」の命日(10月13日)を中心に、江戸時代から行われている法要行事です。祭りに詳しい同僚が言うには、毎年、全国各地の日蓮宗寺院で同様の行事が営まれているとのこと。その中でも特に、日蓮聖人が入滅した霊跡である池上本門寺の御会式は、盛大で、弘前のねぷた祭りに引けを取らないくらい、

 

 アナーキー。

 

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 そんな話を聞いてしまったので、躊躇なく年休をとり、いざ、東京は大田区にある池上本門寺へ。

 

池上の街を万灯が練り歩く

 

万灯

 

本門寺の境内より

 

 国家が、あとからやってきた。

 

 万灯の行進が、夏に行った弘前のねぷたの行進のようで興奮しました。その魅力の源泉は、どちらも明治より前に始まったというところにあるのかもしれません。ちょうど松村圭一郎さんの『くらしのアナキズム』を読んでいたので、そんな見方・考え方が働きました。天皇を頂点とした中央集権統一国家がやってくる前からあった、祭り。国家の命令ではなく、相互扶助と自己組織化という下からの動きで生まれた、祭り。くらしとアナキズムが結び付いたところから出てきた、祭り。

 

 だから、楽しい。

 

 

 文化人類学者・松村圭一郎さんの『くらしのアナキズム』を読みました。著者がベースにしているのは、自身の体験と、デヴィッド・グレーバーの《実はアナキズムと民主主義はおおむね同じものである》という認識です。

 国家がなくても、人々は民主的な自治を行っていた。あとからやってきた国家が、それをダメにした。ウクライナやロシア、イスラエルやパレスチナを見ればリアルタイムでわかるように、国家はそもそもやさしい存在ではないし、あなたが思っているようなものでもない。民主主義と国家は両立し得ない。むしろアナキズムこそが民主主義だ。そういった「かもしれない」語り口を獲得できる一冊です。

 

 

 

 目次は以下。

 

 はじめに 国家と出会う
 第一章  人類学とアナキズム
 第二章  生活者のアナキズム
 第三章 「国家なき社会」の政治リーダー
 第四章  市場(いちば)のアナキズム
 第五章  アナキストの民主主義論
 第六章  自立と共生のメソッド ―― 暮らしに政治と経済をとりもどす
 おわりに

 

 冒頭の引用は「はじめに」から取りました。ざっくりいえば、しあわせに暮らしていたのに、あとからやってきた国家によって、アッバ・オリさんの人生はめちゃくちゃになったという話です。

 

 国がなにかしてくれたことなどない。

 

 アッバ・オリさんの話を聞いて、著者の松村さんは、こう思います。曰く《国ってなんのためにあるのか? ほんとうに必要なのか》と。「魚が何を話しているかを知ることは難しいが、水のことでないのは確かだ」という外国の古いジョークでいうところの「水」にあたるものに目を向けたというわけです。そこで注目したのが、

 

 アナキズム。

 

 国家なき状態を目指したアナキズム。人類にとってのデフォルトであるアナキズムです。

 

 いろんな時代の世界のさまざまな場で、名もなき人々が国家や支配権力と向きあい、自分たちの暮らしを守ってきた。本書では、そんな無名のアナキストたちの営みを人類学の視点からすくいとっていこうと思う。「くらしのアナキズム」というタイトルには、そんな思いをこめた。

 

 国家に依存せず、御会式やねぷた祭りのように、それから歴史に埋もれた無名のアナキストたちのように、ボトムアップで「公共」をつくりなおしていこう。そのために「くらし」と「アナキズム」を結び付けよう。自分たちでできることを増やしていこう。そしてそのプロセスを楽しもう、というのが、全ての章を貫く松村さんの主張です。

 

 Do it yourself!

 

 学校に置き換えると、先生に頼らず、自分たちでクラスをつくっていこう。そのプロセスを楽しもう、となります。だから、

 

 学校で育むアナキズム。

 

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 グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。

 

 第3章より。しびれます。蒙を啓かれます。その他の章にもしびれる見方・考え方がたくさん出てきます。ぜひ読んでみてください。

 上記の引用を「子ども集団が教員の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる」って、そんなふうに読み替えると、学校で育むアナキズムや主催者教育の重要性がわかります。ちなみに池上本門寺のある大田区で生まれ、全国に広がり続けている「子ども食堂」は、グレーバーいうところの「ある集団」の典型のように思います。

 

 学校も、あとからやってきた。

 

 おやすみなさい。