田舎教師ときどき都会教師

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佐藤愛子、田辺聖子 著『男の背中、女のお尻』より。みっともない大人に俺はなる。

 私が佐藤愛子さんを知った最初の頃、彼女はみずみずしく、そして、若かった。
 襟ぐりの広いワンピースかなにかを着ていて、そこに白い肌が現われて、私は、〈やりたいなあ〉と思ったこともある。
 今でも佐藤愛子さんはきれいである。ときどき、〈おや〉と思うほど、色っぽいと感じることがあるが、「やらしてくれよ」などとはいわないことにしている。
 そういう関係になる可能性については、彼女との間では、もうきれいさっぱり、私はあきらめている。
(佐藤愛子、田辺聖子『男の背中、女のお尻』中央公論新社、2018)

 

 こんばんは。女のお尻とか〈やりたいなあ〉とか「やらしてくれよ」とか、のっけから穏やかではありません。引用の文章を書いているのは、小説家の川上宗薫さん(1924-1985)です。かわかみそうくんと読みます。

 

 えっ、知らない?

 

 私も知らなかったのでググってみたところ、うん、有名な小説家だったんですね。芥川賞の候補に5回も挙がっています。直木賞作家の佐藤愛子さん(1923-)とは親友だったとのこと。とはいえ、Wikipedia には《流行作家になってからは妻子と別れ、中野新橋の芸者と所帯を持ち、銀座の複数ホステスと同棲し、最後は30歳下の音大生と結ばれた》とあって、

 

 みっともない。

 

 この「みっともない」という形容詞を肯定しているのが、贈与論で有名な近内悠太さんです。先日、東京は品川にある隣町珈琲に足を運んで、近内さんと河村彩さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院)のトークイベントに参加したところ、対談の最後に「海賊王に俺はなる」みたいなのりで、近内さんがこう宣言したんです。

 

 みっともない大人になる!

 

 もちろん川上さんのことを示唆しているわけではありませんが、冒頭の引用に続く文章を介して、その宣言のニュアンスが何となくつかめたんですよね。近内さんが話していた「みっともない大人でも楽しく生きていますよっていう姿を見せたい」っていうのはこういうことなのかもしれない、と。ちなみに Wikipedia には《川上宗薫という人物は、佐藤愛子の表現をとおして観察すると、とてもユニークで面白い。世間的にいえば、いわゆる「破綻」した側面も持っているが、佐藤愛子はそれを大らかに受け止めている。そういう2人の関係性が面白く、読者を喜ばせる》とあります。ここでいう「破綻」は「みっともない」に置き換えることが可能でしょう。みっともない男性と、それを大らかに受け止める女性。その関係性には、

 

 ちょっと憧れます。

 

 

 佐藤愛子さんと田辺聖子さん(1928-2019)の『男の背中、女のお尻』を読みました。半世紀ほど前に刊行された『男の結び目』に、1975年までに書かれた関連エッセイ等を加えて新たに編集された《男の本質と女の本音を突いた抱腹絶倒の対談集》です。目次は以下。

 

 Ⅰ  男の結び目
 Ⅱ 男と女の結び目 

 

 Ⅰの「男の結び目」には、表題作の「男の背中、女のお尻」の他に、「かわいげのある男、ない男」や「色事と嫉妬」など、11の対談が収録されています。また、Ⅱの「男と女の結び目」には、「あぁ男、おとこ」と「銃後と戦後の女の旅路」の2つの対談に加えて、中山あい子さん(1923-2000)を招いての匿名座談会「男性作家読むべからず」や、野坂昭如さん(1930-2015)との鼎談「愛と聖のはざまで」、それから筒井康隆さん(1934-)によるエッセイ「老後のお聖さん」と川上宗薫さんによるエッセイ「老後の佐藤愛子さん」が収録されていて、

 

 お買い得。

 

 対談もエッセイも、どれもこれもお勧めなのですが、もちろん全部は紹介できないので、表題作の「男の背中、女のお尻」について、少しだけ書きます。

 

佐藤 それで入墨師が、遠目にはえるんだったら桜吹雪よりも緋ボタンの大輪を二輪ここに(両手を胸に当てる)するほうが遠目にはえるといったの。そしたら、彼いたく喜んで、ぜひそれ頼む、それを三日とか四日とかでやれっていったんだって。あれは一日にこれくらい(三センチぐらい指で示す)しかできないんですよ。体力の限界で。それで、そんなに早くできないっていったら、それじゃやむを得ないといって帰っていって、一週間後に切腹したんです。彼はあのバルコニーに立って演説ぶったでしょう。あのときに、パッと胸を開くつもりだったのよ。 
田辺 そういうあわれさていうのはあるねえ、三島さん、チョッチョッとそういうところにね。

 

 このエピソード、寡聞にして知りませんでした。歴史の勉強にもなって、さらにお買い得というわけです。三島というのはもちろん三島由紀夫のこと。佐藤さんも田辺さんも、三島の「あわれさ」を男の色気としてとらえています。そして、その三島と同じ「あわれさ」が、川上さんにはあったとのこと。

 

田辺 川上宗薫はどうですか。(笑)
佐藤 川上宗薫は大あり、あれは。(笑)

 

 おそるべし、川上宗薫。田辺さんにも佐藤さんにもめちゃくちゃ愛されていることがわかります。ちなみに井伏鱒二や太宰治、野坂昭如や司馬遼太郎、それから吉行淳之介にはそういった色気はなかったとのこと。全員呼び捨てにされて、「あれはないな」とばっさり切られています。同時代を生きた同業の女性がそういうのだから、そうなのかもしれません。

 

田辺 あんまりりっぱすぎるようなのはだめなんだなあ。
佐藤 これは、いよいよぐうたら好みになってきたよ。

 

 ぐうたらというのは「みっともない」とニアリーイコールでしょうか。そういえば、近内さんも同じようなことを話していました。あんまり立派すぎるようなのはだめなんだって、繕いすぎだって、人間はもっとだらしないはずだって。だからこその「みっともない大人になる」宣言です。もしかしたらその方が愛されるということを直観しているのかもしれません。女性に限らず、

 

 誰からも、です。

 

 そういったみっともない大人、別言すると子どもみたいな大人が近くにいた方が、子どもたちも安心するのかもしれない。だから、小学校の教員だって、

 

 みっともなくて、いい。

 

 おやすみなさい。