田舎教師ときどき都会教師

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猪瀬直樹 著『太陽の男 石原慎太郎伝』より。学校現場に価値紊乱者を!

 時間を遡れば、石原慎太郎は『太陽の季節』でスターになった瞬間の三島由紀夫との初めての対談で、「道徳紊乱」という語を知り、そこから自分で組み替えて自らを「価値紊乱者」と位置付けた。「嫌悪」の出発点である。
(猪瀬直樹『太陽の男  石原慎太郎伝』中央公論新社、2023)

 

 こんばんは。こんな働き方はおかしいだろうという「嫌悪」のエネルギーが足りないのかもしれません。午前中の数時間とはいえ、日曜日の昨日も学校に行ってしまいました。平日に定時退勤をすると、どうしても休日に出勤せざるを得なくなります。勤務時間内には絶対に終わらないこの仕事量、卒業式のマスクと同様に、どうにかならないものでしょうか。教員不足も学校崩壊も加速するばかり。故・石原慎太郎のような、あるいは石原氏からバトンを受け取った猪瀬直樹さんのような「価値紊乱者」が待たれる所以です。

 

 

 

 猪瀬直樹さんの新刊『太陽の男 石原慎太郎伝』を読みました。作家評伝3部作+スピンオフ作品である『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』に連なる待望の一冊です。とはいえ、正直、もしかしたらこれが作家評伝シリーズの最後の作品になるんじゃないかって、そう考えると、寂しい。読むのがもったいなく思えてしまうくらい、寂しい。願わくば、5年後、10年後に、シリーズの完結編として、著者自身の手による「猪瀬直樹伝」を読みたい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 もったいないと思いつつも、読み始めたら夢中になってしまって、一気に読了しました。これまでの作家評伝と同様に「密」でした。情報量がものすごいということです。石原氏が亡くなったのが2022年2月1日。猪瀬さんが参議院議員に当選したのが2022年7月10日。そしてこの『太陽の男 石原慎太郎伝』の発売日が2023年1月19日です。超が付くほどの多忙の中、どうやったらこんなにも「密」な本が書けるのでしょうか。メイキング映像か何かで、そのノウハウを知りたい。巻末の参考文献は100冊を優に超えます。で、興奮冷めやらぬ中、人生初となる「Amazon ブックレビュー」に感想を書き込んだところ、猪瀬さん御本人が Twitter で紹介してくれて、嬉しい。

 

 

つい先ほど読み終えたばかりで、興奮しています。読み終えるのがもったいなく感じました。国歌・君が代を歌うときに石原慎太郎が「きみがあよおは~」ではなく「わがひのもとは~」と歌っていたのはなぜか。三島由紀夫が「価値紊乱者」石原慎太郎に追い詰められていたのはなぜか。今回もまた、作家評伝三部作(『ペルソナ 三島由紀夫伝』『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』『ピカレスク 太宰治伝』)+ スピンオフ作品である『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』と同様に、著者である猪瀬直樹さんの「問い」が冴え渡り、引き込まれました。学校の授業と同じで、良質の問いはその後の展開に緊張感を与えます。夢中になりすぎたからでしょうか。途中、声を出して笑ってしまったところがありました。「守るべき価値ということを考えたときに、最後に守るものは何だろう?」というテーマについて、三島由紀夫は「三種の神器」と書き、石原慎太郎は「自由」と書いたという下りです。おもしろいですよね。猪瀬さんが《だから、そもそも対談は噛み合いそうになかった》と書いているところもうけました。両者ともに圧倒的に知的で、圧倒的に真剣だからこそのおもしろさです。三島由紀夫という「他者」との対比によって、それから三島と石原という二人のスターが生きていた時代を克明に描くことによる借景の効果によって、さらには知事と副知事という関係にあった著者だけが知っている等身大の石原慎太郎が登場することによって、「太陽の男」が有した価値に、小学校の道徳でいうところの「多面的・多角的」に迫ることのできる一冊です。あとがきに《日本国に足りないのは停滞した空気を攪拌する価値紊乱の振る舞いであり、求められているのはただの個性ではなく、粗い編目を打ち破るある過剰さである》とあります。家長の石原慎太郎から価値紊乱者のバトンを受け取った、作家であり政治家でもある猪瀬直樹さんの自負が感じられる一文ではないでしょうか。とにもかくにも、お勧めです ♪

 

 目次は以下。

 

 プロローグ  ―― 「君が代」と「日の本」
  第1章 敗戦の子
  第2章 ヨットと貧困
  第3章 公認会計士の挫折と裕次郎の放蕩
  第4章 運をつかむ
  第5章 スター誕生
  第6章 ライバル三島由紀夫
  第7章 拳闘とボディビル
  第8章  『亀裂』と『鏡子の家』
  第9章  「あれをした青年」
 第10章 挑戦と突破
 第11章 石原「亡国」と三島「憂国」
 第12章 嫌悪と海
 第13章 天皇と核弾頭
 エピローグ  ――  価値紊乱は永遠なり
 あとがき

 

 三島由紀夫と石原慎太郎がライバルだったということも、石原氏がこんなにもたくさんの小説を書いていたということも、そして何より、もしも石原氏がいなかったとしたら、三島氏はあのような終わり方をしなかったのではないか(?)という、猪瀬さんが以前から気になっていたという仮説についても、寡聞にして知りませんでした。

 石原氏の小説は、処女作の『太陽の季節』しか読んだことがありません。2冊目を手に取らなかったのは、しばしば引用される《部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起した陰茎を外から障子に突き立てた》という文体がNGだったから。あっ、合わないな、と。村上春樹さんの処女作である『風の歌を聴け』の《僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ》という文体は心地よく感じられたのに、なぜでしょうか。ちなみに石原氏は、2014年に『エゴの力』を刊行した際、村上春樹さんのことを次のように評しています。

 

「村上春樹の小説みたいな無国籍的で無個性な人間を描いたものが流行るというのも、情けないことだな。村上の小説を読んでも、私にはさっぱり分からない。まだ村上龍のほうがいい。(村上春樹は)世界的に人気があるとしても、文学としてのエゴが一体どこにあるのか」(産経新聞、2014年11月30日)

 

 三島氏いうところの《無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国》に通ずる見方・考え方のように思います。私もからっぽなのでしょう。ちなみにここでいう「エゴ」は、冒頭の引用にある「嫌悪」から生まれるものと考えられます。アメリカに対する強烈な「嫌悪」、天皇に対する強烈な「嫌悪」、自民党に対する強烈な「嫌悪」、その他もろもろに対する強烈な「嫌悪」が、価値紊乱者としての石原氏の「文学としてのエゴ」、そして「生き方としてのエゴ」を生んだというわけです。同じ産経の記事に次のような言葉も載っています。

 

「そういう意味では、公務員にも強烈なエゴを持った人は少ないな。役人も趣味を持ったらいい。趣味は自分の好きなものでないと熱中しないし、そこでうまくなろうと思ったら感性が研ぎ澄まされることになり、発想力も豊かになってくる。それが個性に反映されるわけだから。趣味はランニングでもいいし、俳句を作るのでもペットの飼育でもいい。それもトコトンやらないと」

 

 教員の働き方がまともなものにならないのも、卒業式のときにマスクを外すという、たったそれだけの決断すらなされないのも、強烈なエゴ、すなわち強烈な「嫌悪」を持った教員あるいは役人が少ないからに違いありません。ハルキストはたくさんいても、価値紊乱者は少ないというかほとんどいないということです。だから、

 

 学校現場に価値紊乱者を!

 

 おやすみなさい。