田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

小川公代 著『ケアする惑星』より。ケアする人を大切に。

 女性が孤立させられる社会においては、「ある協会」や『つまらぬ女』のような女性たちが連帯する物語がもっと語られてもよいのではないだろうか。
(小川公代『ケアする惑星』講談社、2023)

 

 おはようございます。先週、卒業式が終わり、修了式も終わり、やるべきことはまだまだたくさん残っていますが、とりあえずホッとしています。ホッとし過ぎて、抜け殻のようになってしまっているのは、年度末のオーバーワークのせいでしょう。仕事、多すぎ。いつか教室が〈ケアする学校〉の名にふさわしい場所になることがあるとすれば、それは担任が大切にされるときだろうと思います。

 

 

 

 小川公代さんの『ケアする惑星』を読みました。1ヶ月ほど前に参加した連続講座の中で、その日の主役だった教育者・哲学者の近内悠太さんが、会場(東京は隣町珈琲)に小川さんが来ている(!)ことをアナウンスした上で、おもむろに『ケアする惑星』の冒頭の一節を音読し始めたんですよね。

 

 いい人です🍺

 

「ケアと利他、ときどきアナキズム」By 近内悠太さん(2023.2.23)

 

www.countryteacher.tokyo

 

 寡聞にして小川さんのことは知りませんでした。近内さんが声に出してくれた一節があまりにもよかったので、すぐにその場で検索したところ、なんと「英国ケンブリッジ大学卒」って出てくるじゃありませんか。会場にいた小川さんの小柄でかわいらしい雰囲気からは全く想像できず、びっくり。隣町珈琲は本屋も兼ねているので、さっそく本を購入しようと思ったところ、あっという間に売り切れてしまって、またびっくり。参加者の多くが近内さんの贈与と小川さんの存在に心奪われたようでした。

 

 目次は以下。

 

 1章  ”ケアする人” を擁護する
 2章  エゴイズムに抗する 
 3章  オリンピックと性規範
 4章  ウルフとフロイトのケア思想 1
 5章  ウルフとフロイトのケア思想 2
 6章  ネガティブ・ケイパビリティ
 7章  多孔的な自己
 8章  ダーウィニズムとケア 1
 9章  ダーウィニズムとケア 2
10章  ピアグループとケア
11章  カーニヴァル文化とケア
12章  格差社会における「利他」を考える
13章  戦争に抗してケアを考える
14章  ケアの倫理とレジスタンス

 1章では『アンネの日記』を、2~6章ではヴァージニア・ウルフの『波』『船出』『ダロウェイ夫人』『存在の瞬間』を、8章では『約束のネバーランド』と高瀬隼子作品を、9章では再びウルフの『幕間』を、10章ではオスカー・ワールドの『つまらぬ女』を、11章ではルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を、12章ではチャールズ・ディケンズの『ニコラス・ニクルビー』を、13章ではスコットの『ウェイヴァリー』とドラマ『アウトランダー』を、そして14章ではオースティンの『レイディ・スーザン』と映画『ロスト・ドーター』を、それぞれ道徳の授業でいうところの主な「読み物」にして、ねらいとする価値に迫ります。ここでいう価値というのは当然、

 

 ケアのこと。

 

 この「ケア」という価値を、小川さんの専門領域であるイギリス文学を中心とした様々な文学作品を通して、繰り返しますが道徳の授業よろしく多面的・多角的に考え、議論しているのが『ケアする惑星』です。

 

 例えば、以下。

 

 ウルフは、働く女性が ”自分らしく” あろうとするのを邪魔する〈家庭の天使〉について語っている。ウルフの小説で典型的な〈家庭の天使〉を体現するのは『灯台へ』の主人公ラムジー夫人で、彼女は子どもたちの要求に耳を傾け、夫をケアすることに奔走する。〈家庭の天使〉は、ウルフに「ほかの人の考えや願いのため」に生きるよう、そして「自分なりの考えがあることを誰にも悟られ」ないよう忠告する。

 

 3章より。読み始める前は、教師や看護師のようなエッセンシャルワーカーのことがメインに書かれているのかと勝手に思っていましたが、そうではなく、ケアする惑星の主人公は「女性」でした。文学作品を知的に紐解けば、そして現状を省みれば、今なお女性の周りには〈家庭の天使〉の亡霊が浮遊していることがわかり、男性は〈ケアレスマン〉として「ケアする惑星」にはふさわしくない立ち位置を謳歌(?)していることがわかるというわけです。イギリスでもそうなのだから、いわんや日本をや。

 

「おとうさんは、家ぞくのためにがんばってはたらいているんだね。ありがとう」

「おかあさんへ いつもぼくやおねえちゃんのために、ごはんを作ってくれたり、そうじをしてくれたりして、ありがとう」

 

 小学校の生活科の教科書(大日本図書)より。亡霊どころではありません。生活科だけでなく、国語の物語文における主人公の性的役割の固定や、家父長制的な道徳教育など、小川さんと同じ手法で『ケアする学校』が書けるのではないかと錯覚してしまうくらいに、日本の学校で使われている教科書には「ケアする惑星」に相応しくない記述がたくさん残っています。私たち教員は、

 

 そのことにもっと自覚的になった方がいい。

 

 ケアする惑星に相応しい社会をつくっている国の例として、6章にアイスランドが登場します。曰く《家事育児が突然降りかかってきた男性たちは、それまでは当事者意識が希薄だったが、ようやく自分の問題としてケアの価値というものを認識できたのだろう》云々。同じ島国です。

 

 日本だって、できるはず。

 

 

「ケアと惑星的思考」というサブタイトルが付けられた「あとがき」も、《いつか地球が~》から始まる冒頭の一節に負けず劣らず印象的でした。

 

 イギリスで現地の高校に通いながら生活するなかで、自分が「他者」になるということを経験して、ようやく「他者へと関心をさし向ける」というケアの価値にも気づけたように思う。

 

 小川さんは高校2年生のときにロータリー財団の留学生に選ばれ、渡英したとのこと。賢すぎます。どのような子ども時代を過ごしたら、そうなるのでしょうか。それはさておき、この《自分が「他者」になる》という経験をクラスや学年の子どもたちに体験させるためにはどのような実践が考えられるのか。この地球をケアする惑星にしていくためにも、次年度の教室をケアする学校に相応しい場所にしていくためにも、

 

 種々、考える。

 

 午前、年休。