田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

高瀬隼子 著『おいしいごはんが食べられますように』より。教室をアジールに。

誰でもみんな自分の働き方が正しいと思ってるんだよね、と藤さんが言った。無理せず帰る人も、人一倍頑張る人も、残業しない人もたくさんする人も、自分の仕事のあり方が正解だと思ってるんだよ。押尾さんもそうでしょ、と言われて言葉に詰まる。
(高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』講談社、2022)

 

 こんにちは。年齢のせいなのか、発達のせいなのか、新年度始まりの「主役を欠いた大人だけの学校」に強烈なしんどさを覚えました。今週、月火水の話です。たった3日間だけで、だいぶメンタルをやられました。

 で、一回り年下の同僚に弱音を吐いたら、去年も同じようなこと言ってましたよ、と言われて言葉に詰まりました。1年前の日記を見返したら、確かにおいしいごはんが食べられなくなるくらいにやられていて、しばし回想モードへ。よく立ち直ったなぁ。おそらくは教室の子どもたちのおかげです。誰でもみんな自分の働き方が正しいと思っている。だからこそ、職員室がしんどいときには、

 

 教室をアジールに。

 

 以前、内田樹さんから「直に」いただいたアドバイスです。教室をアジールに。学級目標にしてもいいかもしれません。

 その言葉を反芻しながら迎えた一昨日の始業式。子どもたちの姿を見た途端、しんどさがどこかに消えて、ホッとするから魔法です。これだから学級担任はやめられません。実質の初日となった昨日も最高でした。魔法の効果で、アジール効果で、おいしいごはんが食べられますように。

 

 

 高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』を読みました。昨夏の芥川賞受賞作品です。小川公代さんの『ケアする惑星』にこの本が紹介されていて、すぐにアマゾンでポチッとしました。

 

 ポチッとして、よかった。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 奇しくも、押尾が人間の変移について語る場面がある。「わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね。昔、多分持っていたものを、手放していっている。その方が生きやすいから。成長として。誰かと食べるごはんより、一人で食べるごはんがおいしいのも、そのひとつで」(同、144頁)。押尾が猫を助けようとしたとき、芦川は自分では手を貸さず、習慣的に「男」に依存することを主張する。そして、押尾自身は、いつも職場でやっているように、誰にも頼らずに一人で無理をするしかない。女性同士が連帯できない社会にしたのは、二谷のような男が体現する家父長的欲望である。二谷は押尾には心の裡を語れるような友愛(のような)関係を結んでいるにもかかわらず、結局、「芦川さんみたいな人と結婚するのがいいんだろうな」(同、36頁)と、尊敬できないような女性と結婚するのが「男」であるという社会的抑圧を抱え込んでいる。 

 

 小川さんの『ケアする惑星』からの引用です。わたしたちは助け合う能力をなくしていってると思うんですよね、という押尾の台詞が決め手となって、「ポチッ」を決めました。助け合う能力の涵養こそが、あるいは連帯こそが、アジールとしての教室には必要不可欠だと思うからです。

 

 が、しかし。

 

 読んでみると、押尾(♀)と二谷(♂)の二人に共感を覚えるんですよね。助け合う能力をなくしていってる二人に、です。この小説が、芦川(♀)視点ではなく、押尾視点と二谷視点を行ったり来たりしながら進んでいくというつくりになっているからかもしれませんが、とにかく、二人は私に近いな、と。年度始めのテンション高めの職員室が無理なのは、明らかに押尾と二谷だな、と。自宅でつくってきたお菓子やらケーキやらを毎週のように職場のみなさんに振る舞う芦川は、私から遠いな、と。たとえ芦川が尊敬できる女性(仕事のできる女性)だったとしても、無理だな、と。

 

 押尾と二谷と芦川の三角関係を描いたこの作品。

 

 誰かと食べるごはんより、一人で食べるごはんがおいしい。そう感じつつも、押尾と二谷にはどこかで人を求めてしまう弱さがあります。沢木耕太郎さんが描いた檀一雄と少し似ています。

 

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 運命って、と二谷さんが吹き出す。口に枝豆が入っていたらしく、慌てて手で口元を押さえている。それを見てわたしも吹き出した。酔ってるな、と思う。笑いの沸点が低くなっている。箸が転がってもおかしい、という言葉が頭に浮かび、テーブルに揃えてあった箸を小さく転がしてみる。それを見てまた笑う。何してるんだろう。ばかばかしくって笑う。こういうの、楽しい。

 

 小説の前半、押尾と二谷が二人でごはんを食べている場面です。価値観の似ている二人。しあわせそうですよね。こういうの、わかります。このときはおいしいごはんが食べられているはずです。でも、二人とも職場ではしあわせそうじゃないんです。押尾も二谷も《尊敬がちょっとでもないと、好きで一緒にいようと決めた人たちではない職場の人間に、単純な好意を持ち続けられはしない》って思ってしまうんです。だから、職場の人たちとのごはんや不特定多数とのごはんを楽しむことができない。つまり、おいしいごはんが食べられない。要は、人間関係。具体的には、家父長的欲望と社会的抑圧のもとにある人間関係。

 

 昨日、おいしい給食が食べられました。

 

 学校の主役は子どもたちです。