田舎教師ときどき都会教師

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平野啓一郎 著『三島由紀夫論』より。執筆開始から23年。670頁の大作。読まねばならない!

 本書は、三島が最後の行動に至る軌跡を、その作品に表現された思想に忠実に辿るものだが、では、その死が必然的なものであり、不可避であったかと言えば、必ずしもそうとは思わない。三島自身が政治思想の偶然性を強調している通り、『鏡子の家』に対する文壇の無理解など、本人は深く傷ついているが、今にしてみれば、くだらないと言えなくもない出来事の影響が大きく、彼の最も微妙なその第三期次第では、違った四期を迎えていたであろう。
(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社、2023)

 

 こんばんは。国家が、とか、天皇が、とか、三島が、とか、おそらくそんなことは1ミリも考えずに、旅先の写真とともに「めっちゃ楽しんでいます!」なんてメッセージをくれる職場の若者たちって、

 

 三島由紀夫よりも賢い。

 

 そう思うのですが、どうでしょうか。平野啓一郎さんも《三島には一貫して、知性に対する軽蔑があり、行動家の無知・無学を純粋さの証明のように見做す傾向があった》と『三島由紀夫論』に書いています。無知・無学かどうかはさておき、職場の若者たちのナチュラルに「楽しむ能力」たるや、バートランド・ラッセルいうところの《教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた》という認識を証明しているように見えて、2学期が始まる前までに全670頁の『三島由紀夫論』を読まなければいけないという、ある種の当為(ゾルレン)に駆り立てられている私が、それこそ「くだらなく」思えてきます。

 

 疎外感すら覚えます。

 

 

 

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 とはいえ、定価で3400円(税別)もしたので読まないわけにはいきません。ちなみに冒頭の引用に出てくる《くだらない》には傍点が付いています。

 

 くだらない ・・・・・承認欲求。
 くだらない ・・・・・疎外感。

 

 傍点には平野さんの「愛」が感じられます。同時に「怒り」も感じます。愛「怒」相半ばする傍点といえるでしょうか。小説の主人公たちに、

 

 生きなければならない。
 生きようと思った。

 

 そう言わせたのに。平野さんは『三島由紀夫論』の「あとがき」の最後に《私はやはり、三島という人に会って、話をしてみたかった。この思いは、今も強く持っている》と書いています。私はやはり、平野さんと三島の対談を、

 

 聞いてみたかった。

 

 もしも三島に「楽しむ能力」があったとしたら、戦後社会のくだらさなをナチュラル・・・・・に「楽しむ能力」があったとしたら、戦後の生を《「私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。」》なんて総括することも、あんな《最後の行動に至る》ことも、

 

 なかったかもしれないのに。

 

 とはいえ、純粋には楽しめなかったからこそ、『仮面の告白』や『金閣寺』、『英霊の声』や『豊饒の海』などの作品が生まれたという因果は否定できません。コンプレックスや疎外感こそが創造の源泉です。平野さん曰く《本書の意義は、作品論としての各ページの細部にこそあると信じたい》云々。作品論としての各ページの細部に作家・三島由紀夫の存在論が宿る全670ページ。私たちは、

 

 読まなければならない!

 

 

 平野啓一郎さんの『三島由紀夫論』を読みました。一気にではなく、各論を一冊と考え、数日に分けて読みました。読んだ順番は、結論、あとがき、序論、そして各論です。何せ《神様が戯れに折って投げた紙ひこうきみたいな才能》をもった二人です。理解するのに必要な知識が足りず、読み進めるのに結構な時間がかかりました。以下、目次です。

 

 序論
 Ⅰ『仮面の告白』論
 Ⅱ『金閣寺』論
 Ⅲ『英霊の声』論
 Ⅳ『豊饒の海』論
 結論
 あとがき

 ボリュームがありすぎるので、各論より印象に残ったところを一つずつ、備忘録を兼ね、引用のかたちで紹介していきます。まずは序論。序論ではこの大著を読み解く上で必要となるフレーム(三島の創作活動の区分)が提示されています。冒頭の引用にある《第三期》《四期》というのがそれです。

 

 第一期(1941年~45年、16歳~20歳)
 第二期(1949年~59年、24歳~34歳)
 第三期(1960年~65年、35歳~40歳)
 第四期(1966年~70年、41歳~45歳)

 

 第二期は、「生きなければならない」、「生きようと思った」という、『仮面の告白』及び『金閣寺』の決意とともに、三島が一旦、戦中の自己との切断を図り、戦後社会に適応しようと努めていた時期である。

 

 三島も「めっちゃ楽しんでいます!」って、がんばろうとしていた時期があったということです。とはいえ、「努力は夢中に勝てない」という言葉があるように、楽しもうと努力している時点で、ナチュラルに夏を謳歌している職場の若者たちには勝てません。では、努力を強いられるような第二期を用意した《戦中の自己》とは、どのようなものだったのでしょうか。『仮面の告白』論を見ます。

 

 瀬戸内寂聴との対談で語られた美輪明宏の同様の証言は、更に興味深いものである。
「三島さん、ある女の人と、そういう仲になったときに大変だったんですもの。できたというんで喜んで。だから、私、言ったの。「大体、私を好きになるというのは、バイセクシャルの証拠でしょう。私が男っぽい美少年であれば、あなたは完全にホモだけれど、どう見ても疑似女性である私を好きになるということは、あなたは女性的なるものというのを愛しているということで純粋なホモじゃない。あなたはバイセクシャルだ」と言うと、喜んじゃって。「おれはホモじゃなかったんだ」って(笑)、初めて、目からうろこが落ちたらしいの。」

 これらの証言の三島は、『仮面の告白』の主人公と完全に連続している。

 

 体が弱くて戦争に行けなかった。バイセクシャルの可能性があるために普通の恋愛ができなかった。みんなは戦争に行っているのに。みんなは恋愛をしているのに。職員室の若者たちは楽しそうなのに。

 

 なぜ私だけが。

 

 疎外感です。コンプレックスです。それが《戦中の自己》をかたちづくり、その後の三島の生涯の最も簡潔な予告となります。なお、『仮面の告白』の主人公と完全には連続していないところを挙げるとすれば、それは、

 

 文才の有無。

 

 

 この初等科2年生のときのエピソードは『金閣寺』論に載っています。綴り方がよくできた事については作家としての予告に、休まなかった事についてはボディビルの予告になっていると考えるのが妥当でしょう。加えて、文武の併記が《彼の最期》の予告になっているとも読めます。以下も『金閣寺』論より。

 

 しかし、再度繰り返すならば、三島は、こうした彼の最期を予言するともとれる場面を、『金閣寺』に於いては、表向きにはやはり一旦否定し、「生きよう」という言葉で締め括っている。これは、三島の独創的な思想であろうか?―― 否である。敗戦後、体制転換を経て、戦中の天皇神格化を否定し、新しい資本主義、民主主義社会へと適応してゆくことは、多くの日本人が経験したことであった。寧ろ、『金閣寺』は、その遅ればせながらの追認であり、三島はここに至るまでに十年の歳月を必要とした。

 

 多くの日本人と同じノリに乗ることを一旦は追認したにもかかわらず、冒頭の引用にあるような《文壇の無理解など》のくだらないと言えなくもない出来事、及び幼少期にデフォルトとして埋め込まれたコンプレックスや疎外感によって、三島の「努力」は職場の若者たちに代表されるような「夢中」に、残念ながら、

 

 負けてしまうんですよね。

 

 敗北が濃くなっていった結果、三島は、自身の拠りどころとなるような、「身を挺する」対象を探すようになります。国家が、とか、天皇が、とか、そういったものです。二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校と、神風たらんと死んだ特攻隊員の霊が天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様を描いた『英霊の声』も、そういった流れに位置づけると理解しやすくなります。

 

 続いて『英霊の声』論より。

 

 何故、「身を挺する」対象は、市民社会でなく国家なのか? それは、ただ危機下の国家だけが、個人の「エゴイズム」の克服を、死の克服に直結させる存在だからである。彼が「神的天皇」を要請するのも、まさにこの地点からであり、天皇とは、「没我の精神で、ぼくにとっては国家的エゴイズムを掣肘するファクター」であって、「個人的エゴイズムの原理で国民全体が動いている」時代の「反エゴイズムの代表」なのである。
 こうして、三島の戦後社会とその「エゴイズム」への批判は、「自己を犠牲にする」ことが出来るかどうか、つまり、「大義」のために死ぬかどうか、という究極の問いの形を取ることになる。

 

 何故の「何故ならば」が難しい。掣肘の読み方すらわからないくらい難しい。単純に、ライバル(?)だった石原慎太郎のように、政治家として市民社会と国家の両方に「身を挺する」という選択肢は、

 

 なぜダメだったのか?

 

 そこがいまいち腑に落ちません。腑に落ちないというか、自意識過剰な主人公が思弁的かつ直感的に「世界の果て」とつながってしまうような想像力のことを「世界系」といいますが、それなのか(?)と。その「世界の果て」が「死」なのか(?)と。ちなみに石原慎太郎の後を継いだ猪瀬直樹さんは、著書『ペルソナ  三島由紀夫伝』をベースに書いたという『太陽の男  石原慎太郎伝』の中で、もしも石原慎太郎がいなかったら、三島はあのような死に方をしなかったのではないかという見方・考え方を働かせています。

 

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 石原慎太郎は『老いてこそ人生』という本を書いています。読んでいないので内容はわかりませんが、三島が恐れていた「老い」を肯定的にとらえるタイトルであることから、平野さんのこの本に、三島と石原を比較するという視点があってもいいんじゃないかなと思いました(石原慎太郎の名前は『三島由紀夫論』に一度も出てきません)。老いについて、『三島由紀夫論』の約半分を占めている『豊饒の海』論には、次のようにあります。

 

 三島は、本多を通じて描いた、「老い」と「病苦」が認識者に現実を生きることを可能にさせる、という発想を、従って、最後には肯定的に結ばなかったのである。これは、三島の老いに対する否定的態度の必然であり、だからこそ彼自身は、それとは違う行動へと突き進んでゆくことになった。

 

 老いてこそ人生(!)とは全く思っていなかった三島には、あのような最期の方が「カッコいい」と思えたのかもしれません。『豊饒の海』論を読むと、そう思えます。三島の再来と評されている平野さんは、老いについて、どう思っているのでしょうか。私は平野さんと年齢が近いだけに、気になります。そして素直にいえば、平野さんには、石原慎太郎や猪瀬直樹さんの後を継いで政治家になってほしい。作家の想像力を生かして、日本をカッコいい国にしてほしい。

 

 あとがきに次のようにあります。

 

 拙著『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)でも触れたが、一言で言うと、私は三島を「カッコいい」と思うようになっていた。

 

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 一言で言うと、私は平野さんを「カッコいい」と思っています。その「カッコいい」平野さんには、三島を三島たらしめたような「コンプレックス」も「疎外感」もないように映ります。職場の若者たちと同じように、ナチュラルに人生を謳歌しているように映ります。それなのに、なぜ、こんなにも解像度の高い、カッコいい本を書けるのでしょうか。

 

 誰か『平野啓一郎論』を書いてください。

 

 お願いします。