田舎教師ときどき都会教師

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平野啓一郎 著『本心』より。分人概念と、最愛の人の他者性と。

 それにしても、現在を生きながら、同時に過去を生きることは、どうしてこれほど甘美なのだろうか。僕が、〈母〉を必要としなくなったのも、それが却って、母の記憶を生きることを邪魔していたからかもしれない。今の僕は、母が死んだ世界でも、やはり正しく生きるべきなのだと感じている。さもなくば、僕は母の記憶とともに生きてゆくことさえ出来なくなってしまうから。母を思い出すことが苦しみとなるような人生に、どんな喜びがあるだろうか?
(平野啓一郎『本心』文藝春秋、2021)

 

 こんばんは。福田進一さんのギターも、平野啓一郎さんのトークも、どうしてこれほど甘美なのだろうか。そう思いながら二人のセッションに酔いしれていたら、バックヤードからサプライズで「甘美」そのものが姿を現し、びっくり。先週の日曜日のことです。帰路、福田さんによる「幸福の硬貨」を聴きながら「幸福の拡散」に努めたのは言うまでもありません。

 

 
「甘美」が服を着ると石田ゆり子さん。
「カッコいい」が服を着ると平野さん。

 

 平野さんが福田さんにこう言うんです。「バッハは遠い」って。IOCのバッハ会長のことではありません。チェロ組曲第3番のヨハン・ゼバスティアン・バッハのことです。なぜ遠いのかといえば、バッハが近代以前の音楽家だから。近代以降の、例えばグレン・グールドであれば、現代に通ずる「都市生活者の孤独」のようなものが伝わってくるから、遠いとは感じない。しかしバッハは違うって、もう完全に、

 

「あっちの世界」の会話です。

 

本心

本心

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 平野啓一郎さんの『本心』を読みました。舞台は格差がさらに広がった、近未来の日本。こっちの世界にいる主人公の朔也が、あっちの世界にいるイフィーとの出逢いをきっかけに、母が死んだ世界を、つまり未来を受け入れるようになるという「喪失と回復」の物語です。『本心』をとらえるにあたって補助線となるのは、

 

 分人概念。

 

 個人という、人間の基本単位をアップデートするために平野さんが提起した新しい考え方です。

 

 個人から分人へ。

 

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 喪失と回復(Lost and Recover)。

 

 物語の基本構造として知られるこの「喪失と回復」を分人概念に当てはめると、喪失とはすなわち、朔也の人格構成における「主人格」の死を意味します。死んでしまったのは、朔也にとってたった一人の家族であった、

 

 母。

 

 朔也はVF(ヴァーチャル・フィギュア)と呼ばれる最新技術を使って仮想空間に母をよみがえらせ、「自由死」を望んでいた母の本心を探ることで喪失からの回復を試みようとします。が、うまくいきません。そんなときに出逢ったのがあっちの世界にいるイフィー(♂)と、こっちの世界にいる三好(♀)です。

 

 行くと帰る(Going and Returning)。

 

 これも物語の基本構造として知られています。三好とともにこっちの世界とあっちの世界を行ったり来たりするようになった朔也の人格構成は、往還を重ねるごとに変化し、その上位をイフィーや三好が占めるようになります。母との人格は後景に退き、「主人格」から脱落することに。結果、朔也は「回復」します。

 

 母との過去も、甘美なものに。

 

 冒頭の引用を読んでいるときに、蒔野の台詞を思い出しました。映画にもなった『マチネの終わりに』の主人公、クラシックギタリストの蒔野聡史の台詞です。

 

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられているとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 

 教育は過去を問わない、といいます。教育が問うべきは未来だからです。『マチネの終わりに』も『本心』も、同じことを語っているなって、そう思いました。小学6年生のクラスで流行っている言葉でいえば、推し。

 

 未来「推し」。

 

 ろくでもない小学校生活だったとしても、朔也のように高校を中退したとしても、そのろくでもなさは、或いは中退の意味は、未来をどう生きるかによって変わる。そういったメッセージを含む「推し」です。いわば、

 

 ミライの武器。

 

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 朔也の職業(リアル・アバター)は、オリィさんが開発した分身ロボットの「オリヒメ」からヒントを得たものなのではないか(?)と思って上記のブログを書きました。こちらも是非。

 

 

 最愛の人の他者性。

 

 第13章のタイトルが「本心」で、物語の最後に位置づけられている第14章のタイトルが「最愛の人の他者性」です。本心がわからないからこそ、他者性があるからこそ、すなわち誰もが個人ではなく分人であるからこそ、人は誰かに惹かれ、その誰かを深く愛するのではないでしょうか。

 

 おやすみなさい。