田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

佐藤厚志 著『荒地の家族』より。祭りを通して学ぶ、ここが他のどこでもない地元だという根拠の大切さ。

 滑らかな白いコンクリートがどこまでも続く。道路ができ、防潮堤が聳え、土地は整備された。日がな一日風が吹きすさび、ひとつとして特徴を見出せない浜を見渡すと、ここがどこだかわからなくなる。実際、どこでもなかった。荒浜でも吉田でも鳥の海でもない。
 ここがここであるという証拠を剥ぎ取られた、ただの海辺だった。
(佐藤厚志『荒地の家族』新潮社、2023)

 

 こんにちは。先日、弘前のねぷた祭りと仙台の七夕祭りをはしごしてきました。はしごといっても距離があるので同じ日ではありませんが、どちらも地元出身のプアン(友だち)による案内付きという贅沢な2日間で、数日経った今も、その余韻というか残響のようなものが残っています。

 

 ヤーヤードー。

 

 ねぷた祭りの掛け声です。七夕祭りとは違って、ねぷた祭りは初めてだったので、ほんと、大興奮でした。次は弘前の小学校で働くのもいいなと思ったくらいです。本気で。社会学者の宮台真司さんが性愛とともに祝祭の大切さを至るところで説いていますが、その意味を実感することができたような気がします。

 

 

 ねぷた祭りには子どもたちがたくさん参加しているんですよね。参観ではなく、町内会の一員として、あるいは学校を含む各種団体の一員としての「参加」です。

 

 約2時間にわたるねぷたの運行。

 

 老若男女が一緒になってねぷたを引き、お囃子を奏で、掛け声を上げながら練り歩く様子を見ていると、だんだんと引き込まれていって、宮台さんがしばしば言及しているところの「眩暈」を覚えるようになってくるから不思議です。

 

ねぷた祭り(2023.8.6)

 

 ヤーヤードー。

 

 子どもが先頭に立って、拡声器を使って「ヤーヤードー」って叫んだりするんです。全体の音頭をとっているということです。自信がつくのは間違いありません。表現力も。自信や表現力だけでなく、小学校でいうところの特別活動(行事、縦割り、等々)でつけようとしている力も確実につくような気がしました。こうやって古き良き共同体が維持されているんだな、と。ねぷた祭りのガイドを務めてくれたプアンが地元愛にあふれているのも頷けます。地元愛、すなわち《ここがここであるという証拠》を前提とした、

 

 愛。

 

 冒頭の引用にある《ここがここであるという証拠》って、地元愛を育むためには必要不可欠ですよね。弘前の次に足を運んだ仙台には、学生時代にはなかったスタバがそこかしこにあって、風景の変化にノスタルジアを強制されました。まぁ、スタバができても《ここがここであるという証拠を剥ぎ取られた》わけではないのですが。それにしても、仙台、お洒落なお店が増えたなぁ。

 

母校(2023.8.7)

Echoes

 

七夕祭り/児童生徒による復興折り鶴

 
 仙台の七夕祭りも地元出身のプアンが案内してくれました。待ち合わせ場所は仙台駅の近くにある丸善ジュンク堂書店仙台アエル店です。少し早めに行って書店ブラウジングを楽しんでいたところ、白抜きで書かれた「現役書店員芥川賞受賞」という文字に目がとまりました。

 

 これです。

 

丸善ジュンク堂書店仙台アエル店(2023.8.7)

 

 小説家として活動しながら、丸善ジュンク堂書店仙台アエル店の店員として勤務している、芥川賞作家の佐藤厚志さん。知りませんでした。書店員をしながら執筆もしているなんて、ちょっとというか、かなり憧れます。注意書きに「本人が売り場におりましても直接サインを書くことはお受けしかねます。ご了承の上お買い求めくださいませ。」とあったので、もしかしたらと思ってウロキョロ(造語)しましたが、それらしき人は周りにいませんでした。残念です。でも、

 

 サイン本ゲット!

 

 

 佐藤厚志さんの『荒地の家族』を読みました。第168回芥川賞受賞作品。タイトルと表紙から想像できるように、震災をモチーフにした、ライトではない小説です。文体もライトではありません。

 

 芥川賞らしい、それ。

 

 六郎からも、河原木からも祐治は聞いていたが、明夫の妻の恵は、明夫の酒癖の悪さに愛想を尽かして生まれて間もない娘の玲奈を連れて浜吉田の実家に帰った直後、海の膨張に巻き込まれた。
「お前でもうまくいかねえのか」
 明夫はがっかりしたように言った。
「どういうことだよ」
「俺を見ろ、何やっても続かねぇ」

 

 主人公は40歳の植木職人・坂井祐治。息子が一人。母と3人住まい。震災の2年後に妻を病気で喪い、その後再婚したものの、逃げられ、うまくいかず。もう一人の主人公(準主人公)とでもいうべき幼馴染みの明夫も、震災で妻子を喪い、体調を崩し、仕事を含め、何をやっても中途半端で、うまくいかず。祐治は植木職人というアイデンティティを糧にぎりぎりのところで踏ん張っていますが、明夫はすっかり卑屈になってしまって、

 

 ヤバイ感じ。

 

 木は切られ、ショベルカーが土を掘り、ひっきりなしにダンプが往来する。あっという間にてっぺんが消えた。首を落とされるように馴染みの山がひとつ消えるというのは、ここが他のどこでもない地元だという根拠が失われるのと同じだった。

 

 ここがここであるという証拠を剥ぎ取られた「ただの荒地」には、うまくいかなくなった家族を包摂する力や、家族を家族たらしめる力はないんですよね、きっと。だから祭りがつくってきたような共同体が必要なんだろうなと思います。ネタバレになりますが、ここでいう《馴染みの山》っていうのは、幼馴染みである明夫の未来に対する暗喩だったんだなって、いま気が付きました。

 

 祐治の未来や如何に。

 

 仙台、また行きたい。