田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

見田宗介 著『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』&『マル激(第1100回)』より。宮沢賢治 → 見田宗介 → 宮台真司、等々 → 以下、無限に続く。

 わたしたちが〈いいこと〉のために自分を犠牲にするというとき、なにがほんとうに〈いいこと〉であるか、それをどのようにしてわたしたちは知ることができるのか。
 友人の生命を助けて死んだカムパネルラは、文句のない善行にみえる。それでもカムパネルラは、泣きだしたいのをこらえているように急きこんで云わねばならない。「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」カムパネルラがそのようにして早死にしてしまうことは、少なくともカムパネルラの母親にとって、ほんとうに〈ひどいこと〉である。
(見田宗介『宮沢賢治  存在の祭りの中へ』岩波現代文庫、2001)

 

 おはようございます。今週末は運動会です。スタイリッシュな運動会。企画段階のときにコロナ前に戻そうとする動きがあったので、反対意見を述べ、ストップをかけました。コロナという外圧のおかげで、せっかく短距離走と表現だけのスタイリッシュな運動会になったのに、なぜ団体競技やら得点やらを復活させようとするのか。全くもってさっぱりわかりません。コロナ前の運動会は、どう工夫したところで過労死ラインを超える「教員の自己犠牲」を前提としたものでした。なにがほんとうに〈いいこと〉であるか、なぜ教員不足になっているのか、そこを質したというわけです。

 

 

 ほらっ、保護者だって《延々、陽なたに立たされ、地獄過ぎる》とつぶやいています。なにがほんとうに〈いいこと〉であるか、それをどのようにしてわたしたちは知ることができるのか、そしてぶっちゃけ、誰が、あるいは何が学校を動かしているのかを真剣に考えていかないと、私たちの未来は、ほんとうに〈ひどいこと〉になってしまいます。

 

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「人はほんたうのいゝことが何だかを考へないでゐられないと思ひます。」

 

 宮沢賢治の死後に発見された草稿『学者アラムハラドの見た着物』に登場するセララバアドという子どもは、アラムハラドの《「人が何としてもさうしないでゐられないことは一体どういふ事だらう。」》という「自己犠牲」をテーマにした問いに対してそのように答えます。セララバアドの答えを通して賢治が伝えたかったことは、自己犠牲が前提としている善や正義は、それ自体が問い返されるべきものであるということです。運動会の話につなげれば、団体競技や得点、リレーや応援団を復活させて、私たち教員が「子どもたちのために」と勤務時間外もボランティアで働き続けることは、本当にいいことなのか。カンパネルラの母親と同じような立ち位置にいる人にとってはどうなのか。自己犠牲は陶酔と相性がいいだけに、私たちは教員はよく考える必要があります。

 

 

 見田宗介さんの『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』を読みました。5月7日(土)のマル激トーク・オン・ディマンド(第1100回)、見田宗介(=真木悠介)教授追悼特別番組「われわれ一人ひとりが翼を持てば自由を手放さずとも社会を変えることはできる」を視聴してからというもの、見田さんの本を全部読まなければいけないというマスト感にかられています。

 

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 で、読み始めてびっくり。序章「銀河と鉄道」のはじめによく知っている詩の一節が引用されていたからです。

 

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
 客車のまどはみんな水族館の窓になる

 

 賢治の『青森挽歌』の走り出しの数行です。これ、数年前に、著書『場づくりの教科書』で知られる長田英史さんに教えてもらった一節なんです。見田さんはこの詩を通して《外にありながら内にあること、内にありながら外にあること》、すなわち翼をもつこと、根をもつことの理路を、長田さんはこの詩を通して《私が場をつくり、場が私をつくる》ことの理路を、自身の体験を踏まえ、自分の言葉で説明しています。マル激の中で社会学者の宮台真司さんが「見田先生の言葉をいろんな人がいろんな形でパラフレーズしていくことが大事だと思う」と話していましたが、長田さんもまた、見田さんのバトンを受け取っていたということです。お会いしたこともあるそうだし。ちなみに長田さんは小学校の教員だった鳥山敏子さんの弟子筋にあたる人で、鳥山さんには見田さん(真木悠介さん)との共著『創られながら創ること』があります。タイトルからして、賢治に影響を受けているお二人らしいな、と。外へ内へと転回しつつ、未知の次元へと向かうのが賢治ワールドの特徴ですから。

 

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 以下、『宮沢賢治』の目次です。

 

 序 章 銀河と鉄道
 第一章 自我という罪
 第二章 焼身幻想
 第三章 存在の祭りの中へ
 第四章 舞い降りる翼
 補 章 風景が離陸するとき

 

 第一章から第四章が《賢治の全作品と全生涯をとおしてくりかえし現れる四つの原主題》となっています。図にすると、以下。「自我の羞恥」は「自我という罪」、「舞い降りる翼」は「地上の実践」と同じです。「世界」とか〈世界〉とか。宮台真司さんの言葉の選択の起源に出会えたようで、宮台ファンとしては、嬉しい。

 

四つの原主題(P54)

 第一章「自我という罪」と第二章「焼身幻想」は、かつて小学校の国語の教科書にも載っていた『よだかの星』の「よだか」が典型としてわかりやすいでしょう。醜さゆえに仲間から嫌われ、虫の命をいただかなければ生きていけないがゆえに自分自身のことも嫌悪し、最後には命をかけて夜空を飛び続け、いつしか青白く燃え上がる「よだかの星」になるというストーリー。6年生の国語の教科書(光村図書)に「イーハトーブの夢」と題して賢治の生き方・考え方が載っていますが、よだかと賢治はニアリーイコールです。ちなみに冒頭の引用は第二章からとったもので、ここでは焼身幻想、すなわち自己犠牲のモラルが光と同時に闇も抱えていること、見田さん曰く《〈ほんとうにいいこと〉が何であるかという問いのまえに、ひとはいつまでも動揺をつづけるほかはないだろう》ということが示されています。

 

 では、どうすればいいのか。

 

 存在という新鮮な奇蹟に開かれるしかない。それがサブタイトルにもなっている第三章です。この章には〈トナール〉と〈ナワール〉という、宮台さんお勧めのキー概念が登場します。見田さん(真木悠介)の名著『気流の鳴る音』と同様に、要約を許さない内容なので、ぜひ、お読みください。

 

〈ヨクミキキシワカリ〉とは一般に頭のよさということではなく、吉本隆明がいうように弱いもの、小さいもの、醜いもの、卑しめられているものに向かう〈察知〉の能力である。それらのものの語られないことばをきく力、みえないものをみる力である。〈ワカル〉ということは、自我に裂け目をつくること、解放への通路をひらくことである。

 

 第四章「地上の実践」より。私たち教員の立ち位置は、ここです。言い換えると、教室の実践。ヨクミキキシワカル力を子どもたちに示し、そして解放への通路をひらく種を子どもたちに蒔き続けること。長田さんが言うには、鳥山敏子さんは見田宗介さんのことを「まきくん」と呼んでいたそうです。見田宗介さんのペンネームである真木悠介の「真木」には、もしかしたら種を蒔き続けるの「蒔き」の意味もあったのかもしれません。

 

 次は『自我の起源』にチャレンジしようと思います。

 

 存在の祭りの中で。