田舎教師ときどき都会教師

テーマは「小学校教員の働き方と生き方」&「本、旅、人」

『マチネの終わりに』から考える、分人主義をベースとした学校教育のアップデート。

《ドーン》みたいに、六人の人間が、ずっと一緒にいると、その間、たった一種類のディブしか生きられないでしょ? 宇宙空間のストレスは、本当なら、地上のあちこちに、自由にばら撒かれていたはずのディブが、発生する余地がないっていうことが大きいんだ。それは、やっぱり、……苦しいよ。人間は、ディブをそれなりにたくさん抱えて、色んな自分を生きることでバランスが取れてるんだと思う。
平野啓一郎『ドーン』講談社文庫、2012)

 

 ディブというのはディヴィジュアル(分人)のことで、平野啓一郎さんが生み出した造語です。夏目漱石が造ったとされる「新陳代謝」や「無意識」と同様に、世界の見え方を一変させてくれる新しい言葉🎵

 

 個人(individual)から分人(dividual)へ。

 

 人間の基本単位を「個人」ではなく「分人」にアップデートすることを目的にして書いたという、平野さんの『私とは何か』には、《たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である》とあります。対人関係ごとに見せる複数の顔のひとつひとつが、ディブ、すなわち「分人」であるということ。小説&映画『マチネの終わりに』のヒロインである洋子を例にすれば、

 

 蒔野といるときの洋子。
 夫のリチャードといるときの洋子。
 仕事仲間のフィリップといるときの洋子。
 息子のケンといるときの洋子。
 父といるときの洋子。
 母といるときの洋子。

 

 その全ての「分人」を足し合わせたものが洋子というわけです。ディブは《キャラみたいに操作的なものではなく、向かい合った相手との協同的なもの》で、洋子が「蒔野といるときの自分が好き」と思うのであれば、可能な限り、牧野といるときのディブの割合を増やしていけばいい。その割合を増やすことが「蒔野とのディブ」をより豊かなものにしてくれるかどうかはわからないけれど、少なくとも「減らす」或いは「なくす」という選択肢は考えられません。なぜなら《一つでも満更でもないディビジュアルがあれば、そこを足場に生きていける》からです。

 

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文学ワイン会「本の音 夜話」にて(2019.10.10)

 

「分人主義をベースにして書くことで、恋愛小説を更新したかった」。文学ワイン会のときに、平野さんが『マチネの終わりに』について、そう話していました。

 

 学校教育も、分人主義をベースにして更新すればいい。

 

 日本人である平野さんが「分人」という考えに至ったのも、もしかしたら日本の学校教育のアンバランスさが影響しているのかもしれません。アンバランスさというのは、ドーンの描写を借りると次のように表現できるものです。

 〇年△組みたいに、ひとつの学級集団に固定されると、その間、たった一種類のディブしか生きられないでしょ? 教室空間のストレスは、本当なら、学校外のあちこちに、自由にばら撒かれていたはずのディブが、発生する余地がないっていうことが大きいんだ。

 小学校の教員が置かれている状況も同じです。平野啓一郎さんのことも、変形労働時間制のことも、どちらも知らないという、現任校の同僚たち。過労死レベルで働いているから、ほとんどの先生が「学校で過ごすデイブ」しか生きることができなくて、小説を読んだり、政治を考えたりすることができない。学校空間のストレスを何とかしない限り、ドーン(夜明け)は来ないし、神戸の「教員いじめ」のようなこともなくならない。

 

 平野さん曰く「小説は、人間を理解するためのもの」。

 

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ワインショップ・エノテカ 銀座ミレ店のカウンターにて

 

 来年度からはじまる新学習指導要領の実施で、授業のコマ数はさらに増え、子どもも教員も、これまで以上に「学校」に縛り付けられることになります。さらに、変形労働時間制の導入が、事態の悪化に拍車をかけると予想されています。子どもも先生も、もっともっと多くの「ディブ」を「学校外」にもつことができるよう、分人主義に立脚して学校教育をアップデートしてほしい。心からそう思います。

 

 映画『マチネの終わりに』は11月1日にスタート🎵

 

 楽しみだな🎵

 

 

ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

 
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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