若いときには、ひとはだれでも世界を変えたいと思っています。でもそれはオルタナティブでありたいという思いとは関係ない。若者は先行世代を追い出せば業界が変わると考える。でもじっさいにはテレビも新聞もつねに新しいコメンテーターを必要としているし、論壇も文壇もつねに新しい書き手やスターを送り出したいわけです。だから、若い世代が先行世代からポジションを奪ったとしても、業界全体の構造を変えることにはならない。ほんとうはもっと原理的なことを考えなければいけない。でもそこがわからない人が多かった。
(東浩紀『ゲンロン戦記 「知の観客」をつくる』中公新書ラクレ、2020)
こんばんは。土曜授業の疲れが残っていてクタクタです。雑談もできない、忙しすぎる毎日。月曜日の今日、子どもたちも心なしか、否、わかりやすいくらいに疲れていました。
ジョン・デューイの『人間性と行為』に《鶏は卵に先行する。だが、それにもかかわらず、この特殊な卵は鶏の将来の型を変えることのできるように扱われるかもしれないのである》とあります。学校は社会に先行する。だが、それにもかかわらず、この特殊な小社会(=学校)は社会の将来の型を変えることのできるように扱われるかもしれないのである、ということです。それ故、若いときは「教育が変われば社会は変わるかもしれない」って、私を含め、《ひとはだれでも》そう夢見がちです。でも、まぁ、途中で気がつきます。別の学校に行っても、別の県に行っても、すなわちどこに行っても《現実には世の中の問題は複雑で、長い歴史があったり利害関係が込み入っていたりして、「知れば知るほどわからなくなる」ことや「わかればわかるほど動けなくなる」ことが多い》ことに。
だから考えます。
そしてこの「考える」という行為を大切にしているのが、東浩紀さんが創業したゲンロンという会社です。若いときからオルタナティブを志向していたという東さん。デューイのいう「特殊な卵」は、もしかしたらゲンロンのことなのかもしれません。
ゲンロンカフェが大事にしているのは、まさにこの「考える」という行為です。思考は誤配=雑談から生まれます。そして無駄な時間を必要とします。
誤配って言葉が、相変わらず、よい。
東浩紀さんの『ゲンロン戦記』を読みました。まえがきには《本書で語られるのは、資金が尽きたとか社員が逃げたとかいった、とても世俗的なゴタゴタである。そこから得られる教訓も凡庸なものである》とあります。
つまりは会社の奮闘記。
学級経営がうまくいかない担任のようだなって、読みながらそう思いました。悪い癖です。否、このブログの趣旨なのですが、すべてを学校教育に見立ててしまいます。
ゲンロン → 学級 or 学校
ゲンロンカフェ → 授業
ゲンロンスクール → 授業
チェルノブイリへのツアー → 行事
東浩紀さん → 担任
アルファベットで登場する5名 → 支援を必要とする児童
アルファベットで登場する5名の児童が、預金を使い込んだり経理を放置したり、担任の目を盗んで放漫経営をしたりして、学級を引っかき回します。精神をむしばまれた担任の東先生は、心が折れ、いったんは学級を畳むことを決意しますが、徳久くんをはじめとする実名の児童に励まされ、立ち直ります。あとがきにて、アルファベットの児童に言及し、東さん曰く《彼らは本書のなかで、ぼくが自分の愚かさに気づくきっかけとして、とても重要な役割を果たしている。だから登場してもらった》云々。小学校の先生っぽい回想です。何年経っても担任は覚えていますからね、手のかかった子どものことって。
学校関係者にとっての白眉は、これ。
コミュニティをつくり、生徒同士が親しくなれば、トラブルも起きます。新芸術校にしてもSF創作講座にしてもマンガ教室にしても、スクールに来るひとの多くはプロになりたいひとだから、相互に嫉妬もあるし、屈折や怨嗟を抱える受講生も少なくない。なかにはゲンロンに対して、ぼくたちから見れば不当と思うような怒りをぶつけてくる生徒もいます。けれども、そういう「面倒な人間関係」を含めてゲンロンスクールなのだと、最近は割り切っています。さきほどまでの言葉でいえば、それもまた「誤配」です。教育は誤配のリスクなしには不可能です。
4月の学校便りに校長先生の言葉として載せたい文章です。教室での些細なトラブルにいちいち反応してくる保護者にプレゼントしたい文章でもあります。
教育は誤配のリスクなしには不可能です。
うまいなぁ。誤配という言葉を使わせたら、ジャック・デリダ亡き今、東さんの右に出る者はいないでしょう。
普段ならけっして出会わないようなひとたちが出会い、普段ならけっして話すことがないような議論をする。
そういった「誤配スタイル」を10年後、20年後のゲンロンにも残せるように努力したいというのが、東さんの未来に賭ける願いです。そしてこの「誤配スタイル」を、公教育にも取り入れることはできないだろうか、というのが、もとバックパッカーの私の妄想です。バックパッカーの醍醐味って「誤配」ですからね。誤配を訪ねて三千里。東さんも《旅の価値のかなりの部分は、目的地に到着するまでのいっけん無駄な時間にあります。そのときにこそひとは普段とはちがうことを考えますし、思いかけぬひとやものに出会います。そのような経験こそ「誤配」です。ゲンロンは、その無駄にこそ価値があると言ってきたわけです》と書いています。
誤配のリスクを望まない保護者に最適化してしまっている現在の学校教育に、風穴を。
忙しすぎる学校に、誤配を。
誤配を生む、時間を。