田舎教師ときどき都会教師

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チョ・ナムジュ 著『82年生まれ、キム・ジヨン』より。それで、あなたは何を失うの?

「それで、あなたが失うものは何なの?」
「え?」
「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友だちっていう社会的ネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。だから失うもののことばっかり考えちゃうんだよ。だけど、あなたは何を失うの?」
(チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』ちくま文庫、2023)

 

 こんばんは。あなたは何を失うの(?)と問う妻に、そろそろ《子ども一人、持とうよ》って、《ノルウェー産の鯖を買おうよ》とでも言うかのように口にしてしまった夫は何と答えたのか。

 

 世の男性は何と答えるのか。

 

 得るものだって、あるだろう。私だったらそう答えるような気がします。そして「得るものじゃなくて、あなたが何を失うのかを聞いているんだけど」って、さらなる怒りを買ってしまうような気がします。

 試しに2022年生まれの ChatGPT に聞いてみたところ、「夫は次のように答えるかもしれません。妻、君の言う通りだよ。子どもを持つことは大きな責任だし、私たちの生活が変わることは間違いない。でも、子どもを持つことで得られる幸福や成長もあると思うんだ。新しい家族の一員を迎え入れ、愛情を分かち合うことで、私たちは新たな経験や喜びを見つけるかもしれない。そして、子どもを育てることで、私たちは自分たち自身も成長し、新たな意味や目標を見つける機会が生まれると思うんだ。もちろん、失うものもある。自由な時間や独立性、経済的な余裕など、それらを一部犠牲にすることは確かだけど、それでも子どもを持つことは私たちにとって大切な経験かもしれない。何を失うかも考えるけれど、何を得るかも同じくらい大切だと思うよ」と返ってきました。イエスバット法に則った、

 

 いかにも、な答えです。

 

 この「いかにも」な答えに、82年生まれのキム・ジヨンが納得するとは思えません。おそらくキム・ジヨンはこう思うでしょう。私たちという言葉で誤魔化すな。犠牲になるのは私たちではなく私の人生だ。あなたはほとんど何も失わない。なぜならあなたは男だから。

 

 名前のある男だから。

 

 

 チョ・ナムジュさんの『82年生まれ、キム・ジヨン』(斎藤真理子 訳)を読みました。お隣の韓国で社会現象を巻き起こし、日本でも大きな話題となったフェミニズム小説です。綴られているのは、82年に生まれたキム・ジヨンが、結婚し、子どもを産み、精神に異常をきたすようになるまでの「ごくありふれた」日々のこと。その「ごくありふれた」日々の中に、冒頭の引用もそうですが、当たり前のように性差別的な場面が出てきます。明らかに、男女は平等ではない。

 

 これは、わたしの物語だ。

 

 韓国で136万部、日本で23万部、32の国・地域で翻訳されたというこのベストセラーは、そのリアリティーによって多くの女性の共感を得ます。そして同時に、韓国の男性を軒並みフリーズさせてしまったとのこと。なぜならば、

 

 著者の仕掛けがふるっているから。

 

 まず、登場する男性に名前がありません。正確には、キム・ジヨンの夫にしか名前がありません。キム・ジヨンの弟ですら、最後までずっと「弟」です。キム・ジヨンの姉にはキム・ウニョンという名前がついているので、間違いなく意図したものでしょう。男性から名前を奪うことによって、「女に名前なんて必要ない」「かわいければそれでいい」みたいな社会をひっくり返したというわけです。

 

 男に名前なんて必要ない。

 

 稼いでくればそれでいい。次に、キム・ジヨンという名前。これは82年に生まれた韓国の女性でいちばん多い名前だそうです。主人公の名前をごくありふれたものにすることによって、読み手が自己投影しやすいようにしているのでしょう。表紙に顔が描かれていないことも同様の意図だと思います。描かれているキム・ジヨンの人生だって、特別なものではありません。特別ではないからこそ、

 

 これは、わたしの物語だ。

 

 そう思えるというわけです。特別ではないのに、大学の学科長に《女があんまり賢いと会社でも持て余すんだよ。今だってそうですよ。あなたがどれだけ、私たちを困らせているか》なんて言われてしまう。タクシーのドライバーには《ふだんは最初の客に女は乗せないんだけどね、ぱっと見て面接だなと思ったから、乗せてやったんだよ》なんて言われてしまう。実の父からも《おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け》なんて言われてしまう。アウトな発言を息を吐くようにしてしまう男が次々と出てくるところも著者の仕掛けのひとつでしょう。キム・ジヨンの夫である、79年生まれ、チョン・デヒョンも完全にアウトです。

 

「僕は、僕も・・・・・・僕だって今と同じじゃいられないよ。何ていったって家に早く帰らなくちゃいけないから、友だちともあんまり会えなくなるし。接待や残業も気軽にはできないし。働いて帰ってきてから家事を手伝ったら疲れるだろうし、それに、君と、赤ちゃんを・・・・・・つまり家長として・・・・・・そうだ、扶養! 扶養責任がすごく大きくなるし」

 

 あなたは何を失うの(?)と問うキム・ジヨンに対する夫の答えです。これなら、2022年生まれの ChatGPT の方がまともかもしれません。韓国の男性がフリーズするのも当然でしょう。

 

 もちろん、日本の男性も。

 

 

 フリーズしたら、おでんが食べたくなりました。おでんの販売ピークは 「ちょっと寒くなり始めた」「体感気温が急に下がった」という季節の変わり目のタイミングだそうです。男性と女性を取り巻く世界についても、

 

 時代の変わり目。

 

 おやすみなさい。