養老 何もかも手に入るわけではないけれども、生きているだけで満足できる。そんな状況を、生まれてくる子どもたちに対してつくってあげないといけないでしょう。何も難しいことではありません。親が子どもに対して「あなたたちが元気に飛び跳ねていてくれればいい」とさえ、願えばよいのです。
にもかかわらず現状は、「あなたの将来のためだから」と言ってわが子に過剰な教育を強制し、いまある楽しみを我慢させている。それは、親が自分の不安を子どもに投影させているだけです。
子どもたちの日常の幸せを、まず考えてやらなければなりません。
高橋 まったく同感です。私はかねてより、「親は自分の願望を子に託すな」と訴えています。
(養老孟司『子どもが心配 人として大事な三つの力』PHP新書、2022)
おはようございます。昨日、実家の両親&姉夫婦と久しぶりに会って、一緒にランチをしました。会話の中心にいたのは17歳の長女です。
大人になったなぁ。
長女は昔、病気で死にかけたことがあるんですよね。以来、長女はもちろんのこと、次女に対してもクラスの子どもたちに対しても《元気に飛び跳ねていてくれればいい》としか思えなくなったというか、そう思えるようになりました。明石家さんまさんいうところの「生きているだけで丸儲け」ってやつです。強いて挙げるとすれば「人として大事な三つの力」をつけてほしいということでしょうか。しかしおそらくそれらの力も、私の不安を投影させたり、私の願望を託したりすることがなければ、自然と身につくような気がします。医学博士の養老孟司さんも《親という立場からすれば、子どもになにかの力を身につけさせたいと思うかもしれないが、子どもは自然であって、自然はひとりでに展開していくものであろう》と書いていますから。子どもたちの日常のしあわせを考えて、環境を用意すれば、
子どもは自然に育つ。
養老孟司さんの『子どもが心配』を読みました。サブタイトルは「人として大事な三つの力」で、具体的には「認知機能」と「共感する力」、それから「自分の頭で考える人になる」ことを指します。
目次は以下。
第一章 「ケーキが切れない子ども」を変える教育とは
第二章 日常の幸せを子どもに与えよ
第三章 子どもの脳についてわかったこと
第四章 自分の頭で考える人を育てる ―― 自由学園の教育
第一章が児童精神科医の宮口幸治さん、第二章が小児科医の高橋孝雄さん、第三章が脳研究者の小泉英明さん、そして第四章が自由学園学園長の高橋和也さんとの対談です。冒頭の引用は第二章からとったもの。第一章、第三章、それから第四章からもそれぞれ印象に残ったやりとりを紹介します。
まずは第一章。
養老 最後に、認知機能をトレーニングするのに、ぜひ虫とりをやらせてみることをお勧めします。自然のなかで走り回れば空間的な認知能力が高まるし、小さな虫を見つけたり、鳴き声に耳をすませたりなど、さまざまな認知機能を鍛えることができます。
宮口 虫とり、たしかにいいですね。空間的な認知能力、鳴き声や羽音など音に対する認知能力、さまざまな能力が鍛えられます。子どものころから虫とりを楽しめば、認知能力は鍛えられますね。
宮口さんは、ベストセラーになった『ケーキの切れない非行少年たち』の著者として知られています。
ケーキの切れない非行少年たちは「認知機能」に問題を抱えています。認知機能というのは「見たり聞いたり想像したりする力」のことで、この力が弱いがためにケーキをうまく切ることができないし、学校では当然、勉強についていけなくなって非行に走ってしまいがち。だから「認知機能」を高めましょうというのが宮口さんの主張であり、それなら虫とりもひとつの手ですよというのが養老さんの「応え」です。
虫とりかぁ。
先日、数年前に閉校した初任校に足を運びました。校庭が緑に覆われていて、オンブバッタとかショウリョウバッタとかトノサマバッタとか、いろいろな種類のバッタが元気に飛び跳ねているんですよね。冒頭の引用を思い出して、子育てもこうあるべきだなと思ったわけではないですが、都市部の子どもたちを連れてきたら喜ぶだろうなと感じました。都市には遊ぶ場所がありませんから。
高度経済成長期に「子どもの遊び場がなくなる」という問題があちこちで生じて脳化社会が進んだというのが養老さんの見立てです。脳化社会というのは具体的には都市のこと。そこでは自然は排除されます。バッタを倒す以前に、バッタに出会うこともほとんどなくなって、人として大事な三つの力のひとつである「認知機能」が自然と身につくなんてことも期待できなくなってしまったというわけです。だから、
バッタを倒しにアフリカへ。
アフリカへはなかなか行けないので、田舎教師と都会教師がコラボして1週間くらい交換留学的なことができたら、子どもたちの「認知機能」も自然と高まるかもしれません。
続いて第三章。
養老 バーチャル体験への依存が高まると、「知っている」という思い込みがどんどん強くなることも問題です。私の言う「バカの壁」をより堅固にし、自分が知りたくないことについて自主的に情報を遮断する危険がより高まりそうです。
小泉 ほんとうですね。あと、過保護、過干渉の問題があります。「褒めて育てる」ことは「甘やかす」ことではありません。
脳科学者の小泉さんは「実体験が大切である」と主張し、養老さんは「脳」だけで動くようになった昨今の脳化社会を憂い、「乳幼児期における体を使った学習」が軽視されてきた結果と「応え」ます。
結局、海。やっぱり、実体験。
最近の子はアメフラシを見つけてもさわらない。ぎゅっとすれば紫色の液体を出すのに。だから「アメフラシが海水中で紫色の液をだすとそれが雨雲がたちこめたように広がる」というアメフラシの名前の由来をネットなんかで調べていたとしても、それが実感をともなった理解にならない。
先日、数年ぶりに再会した初任校のときの師匠がそう嘆いていました。ICT活用が叫ばれるここ数年の学校教育ですが、本当に大切なのはバッタを倒すことでありアメフラシに雨を降らすことであって、担任も子どももタブレット端末に時間を割いている場合ではありません。小泉さんが対談の最後の言及している「共感する力」(人として大事な三つの力のひとつで、小児科医の高橋さんも同じことに言及しています)だって、自然に触れて《脳の神経系と身体系の土台》を子どものころにしっかりとつくらなければ育たないでしょう。バフンウニをとって焼いて食べたり、ペットボトルの筏をつくって浮かべたり。私の初任校にあった「海に親しむつどい」のような授業の大切さこそが叫ばれてほしい所以です。
最後に第四章。
そうしたなかでもと子は、「形式的に物事を押しつけられて育った子どもは、自分の頭で考えることができなくなる。このような教育は精神的に人を殺す殺人教育である」と、強い口調で述べています。
ですから自由学園では、創立当時もいまも、「子どもたちが自分の頭で考えることのできる人になる」ことを願っているのです。
養老 たしかに知識偏重の教育というのは、いまも続いていますね。
自由学園学園長の高橋和也さんの話の中にある「もと子」というのは、羽仁もと子さんのことです。自由学園の創立者であり、女性初のジャーナリストでもあります。自分の頭で考えられないジャーナリストが増えた結果が「禁忌の領域」を生み、現在の「政治と反社」の問題につながっているのだとすれば、やっぱり教育って大事だなと思います。
古くは『学校と社会』を書いたジョン・デューイも知識偏重の教育に警鐘を鳴らしています。古典『学校と社会』の初版は1899年。100年以上も前からそう言われているなんて。知識偏重の教育では、人として大事な三つの力の最後のひとつである「自分の頭で考える人」になれません。
小学生のころから知識偏重の授業を平日に6時間もやられたら、そして下校後もまた知識偏重の授業を学習塾で何時間もやられたら、そりゃ、自分の頭で考えられずにカルトに洗脳されてしまうような「他人の頭で考える人」になってしまうのも、そして羽仁もと子さんがそういった教育のことを「殺人教育」と表現するのも頷けます。平日に6時間も授業を詰め込むことによって、教員も過労死しているわけだから、まさに殺人教育です。
最後に復習。
人として大事な三つの力とは、「認知機能」と「共感する力」、それから「自分の頭で考える人になる」のこと。これらの力が身につくように、私たち大人は「バカの壁」を乗り越えなければいけない。そして脳化社会に抗うことができるような「子育て」と「教育」の見方・考え方を働かせていかなければいけない。そうでなければ、
子どもが心配。
大人も心配。