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中島岳志 著『思いがけず利他』より。5年生の道徳の『手品師』は誠実? それとも思いがけず利他?

  それは、親鸞が、「言葉の器」になろうとしていたからだと思います。親鸞にとって、『教行信証』を書く自分は、先人の言葉をつなぐ触媒にすぎません。言葉は私のものではなく、私にやって来て留まっているもの。自分がオリジナルの何かを表現できるというのは、賢しらな自力に他なりません。言葉は常に過去からやって来るもの。そして、その背後にある浄土からやって来るもの。だから、『教行信証』は「言葉の器」になった自分を、そのままの形で表現するという方法がとられました。『教行信証』は、その内容以上に、そのスタイルが思想であるような書物です。
(中島岳志 著『思いがけず利他』ミシマ社、2021)

 

 こんにちは。冒頭の《それは》というのは、親鸞の『教行信証』が引用で埋め尽くされているのはなぜか(?)という問いを受けての「それは」です。その問い、引用好きの私にはたまりません。著者の中島岳志さんが考える《「言葉の器」になろうとしていたから》という答えは、このブログを(学級通信を)書き始めたときに参考にした鹿島茂さんの『悪の引用句辞典』のそれと同じです。神学博士たちに始まる西洋の引用重視の文化は『聖書』読解の伝統からきているものであり、鹿島さん曰く《欧米人には「言葉はすべて他人(じつは神)の言葉」であり、人間のオリジナリティは言葉の運用の部分にしかないという認識があるからだ》云々。つまり、言葉も利他と同じように「思いがけず」やって来るということです。

 

 やって来る?

 

 

 このツイート、思いがけずちょっとだけバズりました。教員だけでなく、すべての人が当事者として考えることのできる話題だったからでしょう。世間(?)の見方・考え方の傾向がわかって、思いがけず勉強になりました。

 

 思いがけず再会。

 

 かつての教え子と「思いがけず再会」すると、近内悠太さんいうところの「世界は贈与でできている」って、そう思えます。小学生だった子が、突然、でっかくなって目の前に現われるんです。大人びた口調で語り始めるんです。思いがけず変身です。プラスの意味でのこの不条理。カフカだってびっくりするに違いありません。

 

 いわんや私たち教員をや。

 

 

 中島岳志さんの『おもいがけず利他』を読みました。情けは人の為ならず的な「利己的」利他ではなく、冒頭の「言葉」や「かつての教え子」と同様に「思いがけずやって来る」利他の扉を開いてくれる一冊です。目次は以下。

 

 第一章 業の力 ―― It's automatic
 第二章 やって来る ―― 与格の構造
 第三章 受け取ること
 第四章 偶然と運命

 

 利他は、どこからか「思いがけずやって来るもの」であるということが、そして利他に限らず「思いがけずやって来るもの」に開かれるためにはどうすればいいのかということが、さまざまなエピソードを通して語られます。

 自殺しようとしていた若者に思わずなけなしの五十両を渡してしまった(落語「文七元結」より/第一章)、眠っているときにナマギーリ女神が数式を教えてくれた(ラマヌジャンの数式より/第二章)、贈与は、受取人の想像力から始まる(近内さんの贈与論より/第三章)、私は存在しなかったかもしれない(九鬼周造の『偶然性の問題』より/第四章)等々。これら以外にも様々な例が挙げられていますが、いずれにせよ、どこからか思いがけずやって来る「何か」についてのエピソードであることには変わりありません。ちなみに落語の「文七元結」は「思いがけず利他」の典型として紹介されています。粗筋を知らない&知りたい方は、ググってみてください。私はこの話を近内さんのトークイベント「ケアとエンパシーどきどき利他」のときに知りました。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 トークイベントといえば、郡司ペギオ幸夫さんに聞いた「やってくる」論も「利他」のようなものだなと思います。人工知能ではなく、郡司さんの推す「天然知能」につながるのが「利他」です。利他は、計算不可能ということ。郡司さんの対談相手だった宮台真司さんに『計算不可能性を設計する』という、神成淳司さんとの共著があります。もしも学校で、この「やって来る」ものとしての計算不可能な「利他」を教えようと思ったら、いったいどのように授業を設計していけばいいのでしょうか。

 小学5年生の道徳に「手品師」という教材があります。大きな劇場で手品をすることを夢見ていた手品師が、ある日、町で小さな男の子に出会う。男の子のかわいそうな境遇を知った手品師は、即席の手品で男の子を楽しませ、次の日も来ることを約束する。ところがその日の夜、友人から「明日、大劇場のステージに出ないか」という誘いが舞い込む。さて、手品師はどうするのか。そういった内容です。ねらいとする価値は、

 

 誠実に生きる。

 

 約束を守ることをよしとして男の子のところに行くというのが教科書の結末なのですが、さて、どうでしょうか。6年生くらいになると、このラストに胡散臭さを感じなければ「嘘」のようにも思います。では、この手品師の選択を「思いがけず利他」という角度からとらえ直すとどうなるのか。リアリティーは誠実ではなく、

 

 利他にあり。

 

 思いがけず考える。