田舎教師ときどき都会教師

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村上靖彦 著『仙人と妄想デートする』より。自らの自由な実践の土台となるプラットフォームを生み出す。

 看護実践は無数の多様さへと開かれている。看護師の個性だけでなく、さまざまな疾患に応じて、さまざまな病棟文化に応じて、個々の患者や家族の個性や文脈に応じて、一つとして同じ実践はないであろう。本書では精神科と助産、訪問看護を中心に、保護室での拘束から死産された子どものケアにいたるさまざまな実践の場面を取り上げるが、さらに無数に多様な場面があるのは間違いない。
 しかしこの本質的な多様さと並行して、看護の実践がうまくいくときにはある共通点があるように思える。ひとことで言うと看護師は自由の作り方を教えてくれる。さらに言うと看護師たちは、患者や家族、他の医療者とともに、自らの自由な実践の土台となるプラットフォームを自発的に生み出している。
(村上靖彦『仙人と妄想デートする』人文書院、2016)

 

 こんばんは。ちょうど1週間前の日曜日に、大学生の長女と、長女の友達の留学生と、妄想デートをしてきました。デートの行き先は富士山の五合目です。現実にはだたのドライバーですが、パパ冥利に尽きる旅程で、

 

 楽しい。

 

 

 この「楽しい」の価値を、著書『仙人と妄想デートする』の中で繰り返し説いているのが、精神分析学・現象学者の村上靖彦さんです。看護師にせよ、教師にせよ、留学生にせよ、制度や規則による縛り(例えば教師だったら「宿題の有無や内容を学年で統一しましょう」や「授業の始めと終わりには日直が号令をかけます」、「保護者と連絡先を交換してはいけません」など)があったとしても、誰かとともに《自らの自由な実践の土台となるプラットフォーム》を生み出すことができれば、

 

 楽しい。

 

妄想デートする

 

 

 村上靖彦さんの『仙人と妄想デートする』を読みました。授業でコラボしている大学の先生に勧められた一冊です。昨年度から続いているその先生とのかかわりも、冒頭の引用にある《自らの自由な実践の土台となるプラットフォーム》を生み出す過程で得られたもので、楽しい。

 

 目次は以下。

 

 序 論 実践のプラットフォーム
 第Ⅰ部 ローカルでオルタナティブなプラットフォーム
  第1章 社会通念から外れたところで実践のプラットフォームを作る
  第2章 精神科病院の見える壁と見えない壁
  第3章 メガネをかけてごはんを食べる自由
 第Ⅱ部 プラットフォームの作り方と対人関係
  第4章 患者さんが慕ってくださる
  第5章 仙人と妄想デートする
  第6章 衰弱した患者とのコンタクト
 第Ⅲ部 看取りと享楽のプラットフォーム
  第7章 娘が作ったエビフライを食べて死ぬ
  第8章 死産の子どもとつながる助産師
  第9章 現象とはリアリティのことである

 副題に「看護の現象学と自由の哲学」とあるように、著者は、看護師へのインタビューや病院での参与観察などを通して、現象学的に、すなわち個別の看護実践を生の言葉で記述し、分析することによって、うまくいっている看護師が如何にして《自らの自由な実践の土台となるプラットフォーム》を生み出しているのか、その仕組み(状況への応答の仕方、対人関係の持ち方、具体的な実践のスタイル)を明らかにしていきます。

 

 ひとつ、例を挙げます。

 

室山さん その人が求めているものは何だろうと考える中で、例えば、その、こう、お、おじいちゃん。おじいちゃん。とあるこう。おじいちゃん、なんか妄想いっぱいのおじいちゃんの所にも、か、恋人のように入ったりとか、アハハハ、も、してたりしたので。そう。もう、なんか、ね。この人が、もう、こうやって、今、今の生活維持するには、あの「エロ大事や」みたいな、アハハ、とか。チームの意見であったりとか、自分自身も、その、ニーズは汲み取れているので。もう、ノリでやっちゃうとか。
村上 ああ。へぇー。フフフ。そっか。うん。
室山さん でも、妄想デートですけどね。本当。

 

 表題作にもなっている、第5章より。現象学的アプローチの雰囲気が伝わるでしょうか。室山さんはACT(包括型地域生活支援プログラム)に勤務する看護師で、おじいちゃんは統合失調症の患者です。このときのインタビューでは、室山さんは与える側、おじいちゃんは受け取る側。学校でいうと、教師は与える側。子どもは受け取る側。

 

 後日、その関係性が逆転します。

 

室山さん で、どちらかというと、こう、自分のもっているものを差し上げたいような人たちのような気がします。受け取るだけではなく。うん。受け取るよりも差し出すほうが強いような気がして。
村上 うんうん。ああ、確かに。
室山さん なんかその差し出せる相手が居るっていうところで・・・なんか、じ、自分のなんか、こう、存在する意味っていうんですかね。おのおのなんかこう、なんか持ってるような気がしているので〔・・・〕うん、それもなんかもう、受けとらなきゃいけないもののような気がしてるので、ずっと受け取ってはいるんですけども。

 

 おじいちゃんが差し出す側に、室山さんが受け取る側に変わっていることがわかるでしょうか。看護がうまくいってるんですよね。妄想デートのような、規範とは少し違った「状況への応答の仕方」や「対人関係の持ち方」がよかったのでしょう。室山さんと仙人の立ち位置の変化には、著者である村上さんも注目していて、《ここでは存在の肯定の仕方が逆転している、統合失調症の人が「存在する意味」は、先ほどは室山さんから承認されることで得られていた。今回は逆に自分が室山さんに贈与することによって「存在する意味」を手に入れている》と書いています。

 

 贈与は、受取人の想像力から始まる。

 

 贈与論で知られる近内悠太さんの言葉です。患者から何かを受け取っている(!)。子どもから何かを受け取っている(!)。看護師が、あるいは教師が、そんなふうに想像力を働かせることができれば、そのことこそが《自らの自由な実践の土台となるプラットフォーム》を生み出している証拠になります。だって、そういうときって、

 

 楽しい。

 

 しかしたとえ複数事例から共通項として「楽しさ」という典型(Typus)が取り出されるとしても、それぞれの場合でそのつど異なる意味があるように思える。理由の一つは、その典型が生起することを可能にした文脈がそのつど異なることだ。楽しさの実現の仕方はそのつど異なる。

 

 だからこそ、そのつどの状況や対人関係に応じて、それまでに培ってきた実践のスタイルを柔軟に変化させながら《自らの自由な実践の土台となるプラットフォーム》を自発的に生み出していく必要があります。冒頭の引用をもじれば、授業実践は無数の多様さへと開かれていて、教師の個性だけでなく、さまざまな学級に応じて、さまざまな学校文化に応じて、個々の児童や保護者の個性や文脈に応じて、一つとして同じ実践はないのですから。つまり、

 

 難しい。

 

妄想デートする

 

 担任としての経験年数を重ねてきた結果、自らの自由な実践の土台となるプラットフォームのかたちが、朧気ながらもわかってきたような気がします。そのかたちを誰にでもわかるように言語化することが次の課題でしょうか。

 

 難しいから、楽しい。


 おやすみなさい。