田舎教師ときどき都会教師

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岡嶋裕史 著『メタバースとは何か』&『マル激(第1087回)』より。メタバースはすごくいいぞ。でも、固定化された格差はすごくよくないぞ。

 そんなに仮想現実がいいのか。
 リアルでうまくやっていたり、リアルの生活に親和性の高い資質を持っている人には、ぴんとこない話だとは思うが、すごくいいぞ。
 私はリアルで生きるのが苦手な人間である。人間関係に気ばかり使う割には、好かれもせず、仕事の生産性も悪い。そもそも仕事に行く以前の話で、朝起きるのがうまくないし、満員電車に乗る才能もない。人生が下手くそなのだ。
(岡嶋裕史『メタバースとは何か』光文社新書、2022)

 

 こんばんは。中学受験をした子どもたちが教室に戻ってきました。感染予防のために長く休んでいた子もいたので、何だかホッとします。

 ツイッター情報によると、今年の中学受験では、男子御三家と呼ばれる開成、麻布、武蔵のそれぞれで「格差社会」に関する問題が出題されたとのこと。具体的には、開成の国語で「子ども食堂」が、麻布の社会で「外国人労働者」が、そして武蔵の社会では「教育格差」のことが取り上げられたそうです。将来、日本社会を引っ張っていくであろう優秀な子どもたちには、人生が下手くそでもしあわせに生きることができる社会をつくってほしい。やがてはメタバースに取り込まれてしまうであろう人々にも目を向けてほしい。そういったノブレス・オブリージュ的なメッセージでしょう。

 

 すごくいいぞ。

 

 ちなみにメタバースというのは、情報学研究者の岡嶋裕史さん曰く《現実とは少し異なる理で作られ、自分にとって都合がいい快適な世界》のことです。辞書的な定義では「インターネット上の仮想世界」。わかりやすい例が、小学生に大人気の「フォートナイト」や「あつまれ  どうぶつの森」です。どちらももともとは単なるゲームとして設計されたものですが、いまや子どもたちが「また後で!」と下校した後に集まる「世界」として機能しているとのこと。6年生の子どもたちが成人する頃には、人々の可処分時間の多くをメタバースが占めているかもしれません。

 

 すごくよくないぞ。

 

 なぜ?

 

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 年末のマル激ライブを視聴したときに「メタバース」という言葉を知りました。フェイスブックが社名を「メタ」に変更するくらいだから、知っておくべき「もう一つの世界」といえます。GoogleやMicrosoftなどのテックジャイアントもメタバースに注目し、巨額を投資しているそうで、いったい、彼ら彼女らはどんな世界を思い描いているのでしょうか。社会学者の宮台真司さんは、第1087回のマル激「メタバースはリアルな世界をどう変えるのか」で次のように語っています。

 

 ナイアンティックのCEOが、去年の暮れくらいから、メタのメタバース構想は地獄であるということを繰り返し言っている。ロジックは僕たちと同じです。人々にユニバース、つまりリアルワールドへの関心を失わせるような、リアルな人間関係への関心を失わせるようなメタバースは絶対に世界をダメにする。これは強烈な価値観。だから自分たちは混合でいく。MR(ミクスト・リアリティ/混合現実)でいくとはっきり言っている。

 

 リアルワールドへの関心、リアルな人間関係への関心を高めることに価値を置いている私たち教員としては、看過できない構想です。ヘッドセットを装着してメタバースに入り込むことが「リアルからの逃走」を意味するのであれば、

 

 すごくよくないぞ。

 

 小説や映画と同じじゃない(?)と考える向きもあるようですが、小説の世界に入り込んだり、映画の世界に入り込んだりするのは、解像度を上げてリアルをより楽しむためです。かつて寺山修司が「書を捨てよ町へ出よう」と言ったのも、捨てるような本すらないと解像度が低すぎて町を十分に楽しめないから本くらい読めよという逆説的なアイロニーでした。メタバースが「リアルからの逃走」を意味するのかどうか、もう一つの世界についての解像度を上げるべく、岡嶋さんの『メタバースとは何か』を読んで考えてみました。

 

 

 岡嶋裕史さんの『メタバースとは何か』を読みました。冒頭の引用に《仕事の生産性も悪い》とありますが、Wikipediaで「岡嶋裕史」と検索すると、岡嶋さんがものすごい量の本(ザッと100冊?)を書いていることがわかります。メタバースでAIと相談しながら書いたのでしょうか。しかも、専門である情報セキュリティやネットワーク関係の著作に紛れて『大学教授、発達障害の子を育てる』なんていうタイトルの本もあります。職業柄ちょっと気になったのでアマゾンでポチっとしました。以下は『メタバースとは何か』の目次です。

 

 プロローグ
 第1章 フォートナイトの衝撃
 第2章 仮想現実の歴史
 第3章 なぜ今メタバースなのか?
 第4章 GAFAMのメタバースへの取り組み
 エピローグ

 フォートナイトの衝撃といえば、数年前の保護者トラブルを思い出します。子どもにフォートナイトを買い与えて放置した挙句、そこで起こったトラブルを「学校の責任です」と糾弾されたのです。まさに衝撃でした。知らんがな。あまりの衝撃に思わず「やらなければいいんじゃないですか?」と提案したところ、怒りに火をつけてしまったらしく「家庭のことに口を挟まないでください」と返ってきたものだからさらなる衝撃です。仮想現実の世界に逃げ込みたくなります。

 

 人が誰もいなくなった朽ちた建造物を巡るだけで、明日も生きてみようかという気分になる。私は確かにこの仮想現実に救われている。
「ゲームばかりして」と怒られることの多い人生だったが、「メタバースに住んでいるのだ」と言えばなんだか最先端である。

 

 第1章より。なるほど、あのとき提案すべきだったのは「やらなければいいんじゃないですか?」ではなく「ニーア  オートマタ(NieR:Automata)に移住したらどうですか?」だったのかもしれません。ニーア  オートマタというのは、岡嶋さんのお気に入りのメタバースです。曰く《この世界では人類は滅んでいて、その足跡は廃墟と化し、今はアンドロイドと機械生命体しかいない》とのこと。今後5年以内に誰もが何らかの形でそういった世界にいる(By リチャード・ケリス)と予言されているというのだから驚きです。

 

 SNSからメタバースへ。

 

 第2章と第3章を読むと、なぜメタバースが脚光を浴びているのかがわかります。端的にいえば、技術革新が凄まじいことと、年々リアルがしんどくなってきていることが理由です。しんどさの正体は《固定化された格差》。外見もそう、仕事もそう、教育だってもちろんそうです。この固定化された格差をリセットすることができる世界。それがメタバースというわけです。外見を変えることもできるし、好きな仕事に就くこともできる。その仕事で得たお金をリアルマネーに変えることもできる。自分にとって都合がいい快適な世界なので、アバターを使えば、傷つかない恋愛もできる。承認欲求だって満たされる。

 

「それでいいじゃない、もう一つの世界で生きて、死のうよ」が本書の主張の一つである。

 

 思わず首肯しそうになります。とはいえ、メタバースに親和的な岡嶋さんが危惧していることもあります。それは、第4章で紹介されているMeta(Facebook)やMicrosoftなどの企業によって開発されているメタバースが、《IT巨人が用意した快適な犬小屋》に堕してしまうのではないかという危惧です。つまりは、リアルからの逃走。先に紹介した宮台さんの危惧と同じです。メタバースに取り込まれる人が多ければ多いほど、選挙における投票率の低下などによって、ますますリアル社会がしんどくなり、ますます格差が固定されます。最初の話に戻ると、だから開成、麻布、武蔵のそれぞれが《固定化された格差》を受験問題として取り上げたというわけです。格差が固定化されるのは、

 

 すごくよくないぞ。

 

 私たちにできることは、人々が欲求し、これから確実に産み落とされるメタバースが、私たちを飼い慣らす技術ではなく、個々人の人生の選択肢を広げる方向へ作用するよう、考え、利用していくことである。

 

 メタバースを知って、考えよう。

 

 おやすみなさい。