田舎教師ときどき都会教師

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小林祐児 著『リスキリングは経営課題』より。日本人のキャリアの特徴は「中動態的」。だから世界一学ばない。

 実際に日本の現場で目にするのは、キャリアの主導権を企業に握られつつも、「なんだかんだ、そこそこ楽しく」働いている多くの会社員の姿です。すごく仕事を楽しんでいるわけではないけれど、とはいえ居酒屋で愚痴っていれば解消するくらいの不満しか抱えない。業務命令異動やジョブ・ローテーションも、「飽きが来ない」「新しい人との出会いがある」「成長できる」ものとして捉えている人も多いものです。そうした人々にとっては、先ほどのような「受動的な仕事/能動的な仕事」という対比は、ピンときません。「学ばなさ」を考えるにあたって目を向けるべきは、強調されがちな日本人のキャリアの「受け身な態度」ではなく、この「中途半端さ」そのものです。
(小林祐児『リスキリングは経営課題』光文社新書、2023)

 

 こんばんは。6月の前半に運動会と宿泊行事が立て続けにあり、ここしばらく「リスケジュールは経営課題」状態でしたが、「なんだかんだ、そこそこ楽しく」働き、無事に6月の後半を迎えることができました。とはいえ、おそらくはそのことがまた「長時間労働は経営課題」につながるのだろうなって、そんな風にも思います。ブラックだブラックだと言いながらも、やり甲斐があるから過労死ラインを超えてもがんばってしまうという、教員あるある。リスキリングは経営課題という前に、残業麻痺や慢性的な人手不足など、学校現場には解決すべき課題が山積みです。

 

 

 小林祐児さんの『リスキリングは経営課題』を読みました。副題は「日本企業の『学びとキャリア』考」。手に取ったきっかけは、リスキリングって何だ(?)という勉強不足ゆえの疑問と、これまでに読んできた本の中にも出てきた、著者である小林さん(パーソル総合研究所上席主任研究員)への興味・関心です。

 

 リ・スキリング。

 

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 目次は以下。教育学者の佐藤学さんを想起させる「学びの共同体」など、まるで学校の教員に向けて書かれているかのような章立てで、俄然興味が湧きます。

 

 第1章  「リスキリング」の流行とその課題
 第2章  「学ばなさ」の根本を探る
 第3章  「変わらなさ」の根本を探る
 第4章 リスキリングを支える「三つの学び」
 第5章  「工場」から「創発」へ
 第6章  「学びの共同体」の仕組み
 第7章  「学ぶ意思の発芽」の仕組み
 終 章 これからの企業における「学び」の方向性

 

 リスキリング(Re-Skilling)とは、新しいスキルの獲得を意味していて、簡単にいえば、社会人の学び直しのこと。著者は、リスキリングは《古くて手垢のついた話題》といいます。過去に話題となった「生涯学習」や「リカレント教育」とニアリーイコールだからです。それ故、現在、突然の「リスキリング」ブームが起きているものの、「生涯学習」や「リカレント教育」と同じように、尻すぼみになっていくのではないか(?)というのが、表現は違えど、著者の見立てです。その原因はといえば、

 

 学ばなさと変わらなさ。

 

 小林さんは、国際調査等で明らかになっている、日本の大人の「学ばなさ」と「変わらなさ」がリスキリングのハードルになると指摘します。学ばなければ変わらないし、学ばなければ「学び直し」なんてできるはずありませんから。

 で、先ずは第2章において、タイトル通りに「学ばなさ」の根本に迫るという展開になるわけですが、冒頭の引用といい、次の引用といい、おもしろすぎるんです。本好きにはたまらないんです。國分功一郎さんの『中動態の世界』が出てくるんです。

 

 なぜ日本人は学ばないのか?

 

「学びたくもないし、転職もしたくないし、務め続けたくもないし、企業と交渉したくもない」超・協調主義的な労働者。この、働くことに対する徹底した「意思の欠如」はどこからくるのでしょうか。この謎を理解するヒントをくれたのは、哲学者の國分功一郎によって広く知られるようになった、「中動態」の議論です。

 

 受動態でも能動態でもない、かつては能動態の対として存在していた、中動態。小林さんは、國分さんの『中動態の世界』を引きつつ、日本人のキャリアの特徴は「中動態的」であり、だから学ばないんだ(!)という見方・考え方を働かせます。國分さんが教えてくれたように、曖昧とはいえ、受動態や能動態には存在するとされる意志(小林さんは「意思」と表記しています)が、中動態には存在しないからです。

 

 意志なきところに学びなし。

 

 働くことに対する徹底した「意思、あるいは意志」の欠如が、「学ばなさ」を生んでいるのではないか。そしてそのことが「変わらなさ」にもつながっているのではないか。私の意見を付け加えれば、教員が死にかけながらも「なんだかんだ、そこそこ楽しく」働いてしまうのも、そのためなのではないか。

 

 意志なきところに働き方改革なし。

 

 でも、それって日本人だけのことなのでしょうか。自然と湧いてくるそんな疑問に対して、小林さんは『ハマータウンの野郎ども』を引いて答えます。『中動態の世界』の次に『ハマータウンの野郎ども』が出てくる時点で、本好き教員の私はノックアウトですが、それはとにかく、小林さんはポール・ウィルスの古典をもとに次のように主張します。働くことに価値を見出だしていないハマータウンの野郎どもが、そのことで良し悪しをつけられるわけではないように、「中動態的」であること自体も決して悪いわけではない、と。問題は、これからの時代と日本人の「中動態的」キャリアの

 

 相性の悪さ。

 

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 これからの時代というのは、要するに「学び直し」を絶えず要求されるような、変化に富んだ難しい時代のことです。第4章以降には、その相性の悪さを乗り越え、リスキリングを一過性のブームで終わらせないための手立て(仕組みづくり)が描かれています。学級づくりや学年づくり、学校づくりにも役立つ内容です。

 

 詳しくは、ぜひ一読を。

 

 おやすみなさい。

 

 

 

 

 追記。ブログを書いた後に、國分功一郎さんと千葉雅也さんの対談集『言語が消滅する前に』をパラパラと読み返したところ、《勉強には中動態的な良さがある》とあって、そうすると「中動態的」だから学ばない、とは言えないかもしれないと思いました。う~ん。どうなのでしょうか。