田舎教師ときどき都会教師

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ポール・ウィリス 著『ハマータウンの野郎ども』より。絶望の国の幸福な若者たちと似ているかもしれない。

けどね、たかが学校の成績のことを取りあげて世間はとやかく言うでしょ。たとえばジミーって子は出来は悪いですよ、しかし、あの子は立派な牛乳配達人になるかもしれないし、パン屋としてちゃんとやってくかもしれない。ところがね、世間ではこう言うんですね、「フン、やつは牛乳配達ぐらいが関の山だね」。そうじゃなくてこう言うべきなんだ、「ほんとにきみにぴったりの仕事だよ、きみはひとあたりがいいし、お金のことはきちっとしてるし、ひとと交わるのが好きだろ、理想的だよ」ってね。そうすりゃジミーだって「ぼくは自分にあった仕事に就くんだ、それでうまくやってけるんだ」って考えると思いますよ。
(ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫、1996)

 

 こんばんは。たかが学校の成績の話ですが、小学校の5年生や6年生になると、上記の引用でいうところのジミーのような子がどうしたってでてきてしまいます。ここでいう成績というのは、要するにペーパーテストの点数のことです。市販のテストでクラスの平均点が95点くらいあるのに、丸腰で向かわせるとナチュラルに50点を下回ってしまうような子、いますよね。ひとクラスに一人か二人、或いはもっと。人あたりはよくても、出来は悪い野郎ども。

 

 ジミー、見直しはしたのかい?

 

 5年生や6年生で30点とか40点とか、そういったレベルだと、少なくとも義務教育の終わる中学3年生まではずっと、直接間接に「フン、やつは牛乳配達ぐらいが関の山だね」的なコミュニケーションにさらされ続けることになります。テストがほとんどないというデンマークにでも引っ越せば状況は変わるかもしれませんが、中学校の定期考査を全廃した校長がメディアを賑わすくらいだから、日本の学校にいる限り、テストから逃れる術はありません。

 

 たかがテスト。されどテスト。

 

 ジミーをはじめとする野郎どもの目には、学校って、勉強って、そしてその先にある職業って、どのように映っているのでしょうか。

 

 

 文化社会学者のポール・ウィルスが書いた『ハマータウンの野郎ども ―― 学校への反抗・労働への順応』を再読しました。この有名な本を再び手にとったきっかけは、数日前にリアル書店をほっつき歩いていたときに見つけたブレイディみかこさんの新刊『ワイルドサイドをほっつき歩け』に「ハマータウンのおっさんたち」と書いてあったからです。

 

 ハマータウンって、懐かしいなぁ。

 

ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち

ワイルドサイドをほっつき歩け --ハマータウンのおっさんたち

 

 

 ブレイディみかこさん曰く《労働者階級のクソガキとしてワイルドサイドを歩いていた彼らは、いったいどのようなおっさんになり、何を考えながら人生の黄昏期を歩いているのだろうか》云々。せっかくの新刊を、せっかくのブレイディみかこさんの最新エッセイ集を、せっかくのおっさんたちの人生を、心ゆくまで楽しみたい。そう思って、先に『ハマータウンの野郎ども』を再読することにしました。

 

 労働者階級のクソガキ = ハマータウンの野郎ども

 

 在学中には「反学校」「反権威」の旗を掲げて枠の外にはみ出しまくっていた労働者階級のクソガキどもが、すなわちハマータウンの野郎どもが、なぜ学校を出た途端に牛乳配達人や塗装工などの既存の社会階級の枠にやすやすと自らを委ねてしまうのか。著者であるポール・ウィルスの関心はそういったところにありました。

 

 学校への反抗 → 労働への順応

 

 なぜ「→」となるのでしょうか。思いっきりシンプルにいえば、ハマータウンの野郎どもには「たかが成績、たかが労働」だからです。繰り返します、たかが成績、たかが労働。そこに上下関係はありません。

 

 従順でひたむきな学習態度を、一方では少数の成功者のための条件とし、他方では万人に期待される徳目とする、この落ち着きの悪さ。よりよい学業成績のために努力すればかならず報われると言いつつなお、成績だけがそのひとのすべてを測る尺度ではないと言う、この曖昧さ。個々人の自律的な成長能力とその価値をすべからく学校に固有の評価体系に取りこもうとしながら、そうすることでかえってそれを取りこぼしてしまう、この自己矛盾。

 

 ハマータウンの野郎どもは、こういった落ち着きの悪さや曖昧さ、自己矛盾に代表される公教育制度の「おかしさ」に無意識とはいえ気づいているというわけです。著者は野郎どもを称えて《私はここに真の洞察を認めたいと思う》と書いています。だから「たかが成績」なんかで野郎どもをコントロールすることはできません。コントロールしようとするから反抗されてしまいます。では、労働は?

 

 たかが労働。

 

 職業紹介や進路指導が多種多様な職務を描き分けてみせるのにくらべれば、労働はみな同じであるとする〈野郎ども〉の立場はやはり独特のものである。

 

 職業に貴賎なし。もしも「職業に貴賎あり」という立場をとってしまうと、冒頭に引用した「フン、やつは牛乳配達ぐらいが関の山だね」に同意してしまうことになります。ハマータウンの野郎どもにとっては、《むしろ、そういう尺度の意味を読みかえ、転倒させることが大切》なんです。そうしない限り、上下関係から成る階級制度の抑圧はなくならないからです。だから労働には順応します。

 

 教育の理念的な枠組みに縛られた学校は、少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべき条件として提示する。それで全員が成功するわけではないという矛盾はけっして明らかにされないし、優等生のための処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことについては、学校はおし黙っている。

 

 平等であることと画一的であることは違うのに、ジミーのような劣等生にみんなと同じテストを受けさせることにいったいどんな意味があるというのでしょうか。それも中学校3年生までずっとです。ハマータウンの野郎どもが突きつけている問いは、現在の日本の学校にも有効です。

 

 たかが成績、たかが労働。

 

 反抗こそしないものの、日本の若者たちの多くもそう思っているかもしれません。2011年に出版された、古市憲寿さんのデビュー作『絶望の国の幸福な若者たち』に、上昇志向とは無縁の「幸福な野郎ども」のことが書かれています。社会状況は絶望的にシリアスなのに、生活満足度だけは異様に高い若者たちのことです。あれから10年近く経って、日本の若者の生活満足度はさらに上昇し、今では9割近くが「満足」しているとのこと。社会・経済・政治・教育等々、どれをとっても絶望の国の絶望はさらに深くなっているのにもかかわらず、です。

 

 そこにはどんな洞察を認めればいいのでしょうか。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 隣のクラスのジミーは今日、「マスクが見つからない」という理由で欠席だったそうです。きっと「たかが学校」と思っているのでしょう。たかがマスク、されどマスク。ジミー、マスクは見つかったかい?

 

 マスクくらい、貸すよ。

 

 おやすみなさい。 

 

 

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

  • 作者:古市 憲寿
  • 発売日: 2011/09/06
  • メディア: 単行本