田舎教師ときどき都会教師

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村上靖彦 著『客観性の落とし穴』より。これからの社会に必要なのは、数値化の鬼ではなく、物語化の鬼。

「弱肉強食」ではなく「人は弱い」ということを前提とした制度設計が必要である。無償のケア労働におけるジェンダー不平等、無償の家族介護を前提とした介護保険制度、あるいは福祉・介護職における非正規労働・低賃金、そして広義にはケアワーカーであるといえる小中高の教員をしばる労働条件は、家父長性と経済偏重が生んだ弊害だ。ケアワーカーは社会が成り立つための不可欠な主体であり、ケアを軸として社会を考えるという視点からも、ジェンダーと経済の両面で現在の価値観を逆転するべきだろう。
(村上靖彦『客観性の落とし穴』ちくまプリマー新書、2023)

 

 こんばんは。1年前の7月下旬は、コロナのために隔離生活を送っていました。1学期の通知表を子どもたちに渡して「さようなら」をした後に、緊張の糸が切れ、たまりにたまっていた疲れがジワジワと滲み出てきて夜に発熱。以降、10日間に渡る「パパは部屋から出てこないで」と相成りました。もしも通知表に所見を書く必要がなかったら、その分しっかりと休めて、コロナに罹ることもなかったかもしれないのに。そう思うのは、今学期、教員生活初となる「所見なし」だったからです。まぁ、それでも忙しくて体調を崩しかけていたのですが、所見があるのとないのとでは《教員をしばる労働条件》が全く違います。

 

 

 面談済み(担任と保護者)。

 

 とはいえ、この「面談済み」には問題があります。我が子が「面談済み」という通知表を持って帰ってきたときには全く何も思わなかったのに、担任としてその通知表を渡す段になると、

 

 強烈な違和感。

 

 ツイッターには「何も伝わらない」と書きましたが、何も伝わらないどころか、ABCだけの通知表は、子どもたちにとんでもないメッセージを伝えてしまっている可能性があります。それが違和感の正体。つまり、

 

 客観性の落とし穴。

 

 

 村上靖彦さんの『客観性の落とし穴』を読みました。著者の村上さん(大阪大学大学院人間科学研究科教授・感染症総合教育研究拠点CiDER兼任教員)の専門は、現象学的な質的研究です。質的研究が拠り所とするのは、インタビューや観察記録などの数字では表わすことのできない質的データであり、テストの点数などの量的データではありません。つまり、通知表のABCとは世界観が異なるということ。以下、目次です。

 

 第1章 客観性が真理となった時代
 第2章 社会と心の客観化
 第3章 数字が支配する世界
 第4章 社会の役に立つことを強制される
 第5章 経験を言葉にする
 第6章 偶然とリズム
 第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
 第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景

 

 この成績に客観的な妥当性はあるのですか?

 

 通知表のABCに対して、切れ気味にそう訴えてくる保護者が「多数」いたとします。そうすると、小学校の成績も、おそらくは中学校や高校と同じようにテストの点数だけでつけなければいけなくなります。授業中の発言とか、作文用紙に書いた意見文とか、ディスカッションの様子とか、そういった数字では表せないものは「客観的な妥当性を欠く」ものとして判断されかねないからです。保護者だけではありません。村上さんが相手にしている学生さんも、次のように質問してくるそうです。

 

「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」

 

 そんなふうに口走ってしまう学生さんは、もしかしたら小学生のときにABCだけの通知表をもらって、幼心に「数値が全てなんだ!」と思ったのかもしれません。村上さんはそういった学生さんと接して、次のように思ったそうです。

 

 数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機である。
 とりわけ気になるのは、数値に重きがおかれた結果、今の社会では比較と競争が激しくなったのではないか、ということだ。

 

 まさに日本社会の現状です。学校の現状でもあります。客観性の落とし穴に、おもいっきりはまってしまっている。では、もしも客観性の落とし穴にはまっていなかったとしたら、どんな社会や学校になっていたのでしょうか。第3章に、その例として、フィンランドの公教育が取り上げられています。

 

 以前、同僚のアーダに「フィンランドに、いわゆるいい学校ってあるんですか?」と質問したら「家から一番近い学校」と言われた。

 

 漫画『スラムダンク』に出てくる流川くんのようです。家から近いという理由で強豪校からのスカウトを蹴り、地元の高校を選んだ流川くん。もしかしたらフィンランド人の血が流れているのかもしれません、背も高いし。それはさておき、フィンランドのエピソードは、中学受験に熱を上げる子どもたちや保護者に、否、日本人全員に耳を傾けてほしい内容ですよね。このエピソードは第3章に書かれているのですが、村上さんは次のように言います。

 

 本章では「偏差値で人の能力が測れるのか?」と批判したいだけではなく、そもそも「人間を数値化して比較することで、私たちは一体何をしていることになるのだろうか?」と問いを立てたい。それは数値化・序列化がもたらすものを考えていくためである。

 

 先週、電車に乗っているときに、安藤広大さんの『数値化の鬼』というベストセラーになっている本の広告が目に入りました。で、村上さんの本を読んでいる最中だったので、反射的にこう思ったんです。今の世の中に必要なのは、数値化の鬼ではなくて、

 

 物語化の鬼だろ、と。

 

 第1章から第4章には、数値化の鬼がどんどん増えていって、私はこうやって生きてきたとか、私はあのときこう感じていたというような物語化の鬼がどんどん消されていった、歴史的な経緯が書かれています。曰く《客観性と数値が支配する社会のなかで私たちがなぜ息苦しいのかを描いてきた》云々。続く第5章から第8章には、曰く《もう少し生きやすくなるために視点を変える思考法を提案していきたい》ということで、数値化から物語化へと価値観を逆転すべく、冒頭の引用(第8章より)にあるような、拍手喝采の内容がたくさん書かれています。ポイントは、

 

 経験を言葉にする、ということ。

 

 数値では表せない、一人ひとりの経験です。これを言葉にするということ。実際、村上さんがインタビューを通して相手の経験を引き出し、出てきた言葉を分析する様子が詳細に描かれているのですが、ぜひ、読んでみてほしい。思いっきり引き込まれますから。間違いなくこの本の白眉といえる場面です。クラスの子どもたちのことも、こんなふうに受け止めてあげたい。解像度高く、

 

 こんなふうに価値づけてあげたい。

 

 終わりが見えなくなってきたので、無理矢理着地するために最初の話に戻せば、つまり所見って大事だったんだなっていう話です。所見が数値化の鬼の力を削ぎ、物語化の鬼の役割を果たしていたんだな、と。とはいえ、所見を復活させたいという話ではありません。所見を復活させたら《小中高の教員をしばる労働条件》が悪化してしまいますから。だから通知表は廃止して、ABCも廃止して、さらに授業時数を減らし、一クラスの人数も減らし、一人ひとりの物語を担任がしっかりと把握できる労働環境をつくった上で、学期の終わりに子どもと保護者と担任がテーブルを囲んで、

 

 ゆっくりと語り合えばいい。

 

 

 

 おやすみなさい。