世の中には優れたノウハウがあります。有名なのは向山先生の跳び箱の跳ばせ方があります。あれは強力だと思います。それを『学び合い』に併用したいと願うのは当然です。併用すれば、跳び箱は早く跳べるようになるでしょう。しかし、子ども達が関わり合い、頭を使って跳べるようになった方が、共に困難を乗り越えた仲間を得るという「学校教育とは生涯の幸せを保障すること」に必須な機会が与えられます。さらにいえば、優れたノウハウは多くの子どもに有効であっても、全員ではありません。ノウハウにフィットしない子どもが跳べるような方法を子ども達は生み出せるとなぜ信じられないのでしょうか。
(西川純『『学び合い』 誰一人見捨てない教育論』明治図書、2024)
こんばんは。子どもたちがさまざまな大人に出会うことで、こんな生き方もありなんだなって想像できるようになるという《学校教育とは生涯の幸せを保障すること》に必須な機会を与えることを、ここ数年せっせと続けています。名付けて「結局、人。やっぱり、生き方。~大人図鑑 編~」(総合的な学習の時間)。もちろん『学び合い』との併用です。で、今週もおもしろい大人が目白押しでした。個人面談にて、保護者曰く「公立なのに私立みたいで、日本一贅沢な子どもたちだと思います」云々。
疲れが癒えます。
昨夜はコラボしている大学の先生&企業のビジネスパーソンとの『学び合い』でした。ビジネスパーソンがこう言うんです。産業界をもっと強くしたい、そのためには企業と公教育との関わりをもっと増やしていかなければいけない、この「大人図鑑」の取り組みを日本中に広めていきたいって。その台詞を聞いて、西川さんも同じことを書いていたなって思い出しました。
私は企業と学校の境目が無くなると思っています。
うん、無くなればいい。ついでにいうと、板書も発問も無くなればいい。板書と発問を捨てることによって子どもたち同士が関わる時間を獲得した『学び合い』こそが、
未来だ。
西川純さんの「『学び合い』 誰一人見捨てない教育論」を読み始める。著者がしばしば口にする《過去の教育実践の中で、実証的データによる学術研究に裏打ちされた、全国レベルで広がった教育実践は『学び合い』が唯一だと思います》という事実は重い。形式的慣習による研究ごっこの耐えられない軽さ。
— CountryTeacher (@HereticsStar) July 1, 2024
西川純さんの「『学び合い』 誰一人見捨てない教育論」読了。しばしば出てくる《従来型授業の実践者が『学び合い』を観ると、「何もやってない、丸投げ」と見えます》という記述に、昨日読んだ松尾英明さんの「不親切教師のススメ」と重なる文脈を見る。残業よりも、これらの本をススメたい。#読了 pic.twitter.com/zutdgiuCEN
— CountryTeacher (@HereticsStar) July 1, 2024
西川純さんの『『学び合い』 誰一人見捨てない教育論』を読みました。ポール・ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を真似ると、「『学び合い』はどこから来て 今どうなっていて どこへ行くのか」を論じた一冊といえます。いわば、西川さんの集大成。西川さんのことや『学び合い』のことを知らない教員には、入門書としても読めるので、ぜひ読んでほしい。授業観も仕事の仕方も生き方も変わりますから。
目次は以下。
本書執筆の意図
1『学び合い』とは
2 授業レベルの『学び合い』でつまずくポイント
3『学び合い』でよく聞かれることQ&A
4『学び合い』の目的とは? 子ども達の生涯の幸せを保障するために
5 最高の『学び合い』とは何か 生き方レベルの『学び合い』の姿
6『学び合い』の未来 自分自身の生き残り
おわりに
付録1 『学び合い』の会の開き方
付録2 学校現場での問答の実践事例
わかる授業、おもしろい授業には限界があるということ、すなわち従来型の授業には未来がないということ、だから『学び合い』の研究を始めたということが、冒頭の「本書執筆の意図」に書かれています。板書と発問と説明から成る従来型の授業では、それをどんなにおもしろくしたとしても、あるいは記念碑的にわかりやすくしたとしても、実証的データに基づく学術研究の結果によると、子どもたちの生涯の幸せにはつながらない。すなわち「誰一人見捨てない教育」にはならない。
教員も、幸せにならない。
その前提こそが、西川さんが生み出した『学び合い』の強みです。そしてこの前提に立つと、例えば次のような見方・考え方を働かせることができるようになります。
教員養成系大学の教育でも、学校現場での研究授業でも、指導案検討が重視されています。しかし、私にとっては噴飯物です。
これって、長時間労働の解決にもつながりますよね。指導案をつくることも、つくった指導案をみんなで検討することも、検討後に修正することも、印刷して配ることも、それから授業者の名前のところにハンコなんて押しちゃうことも、全部なくなるわけですから。従来型の授業や働き方では重視されていたことが、『学び合い』では噴飯物に。
それからもうひとつ。
『学び合い』では、個人単位ではなく集団単位で学力を捉えられるのは、面白い授業、分かりやすい授業を目指すのではなく、生涯レベルの子どもの幸せを目指すと捉えているからです。
これって、今をときめく勅使川原真衣さんの『働くということ 能力主義を超えて』に書かれている《「自立」を目指すばかりに、本来組み合わさってなんぼの人間を「個人」に分断し、序列をつけて「競争」させる ―― これを学校で、職場で、こと現代はしこたまやりすぎました》に対する「解」でもありますよね。西川さんの『学び合い』も、個人単位ではなく集団単位、すなわち組み合わせってなんぼの人間という人間観を前提にしているわけですから。個人の幸せよりも、集団の仕合わせ。
それが個人のしあわせを生む。
西川さんが書いていることも、勅使川原さんが書いていることも、それから昨夜ビジネスパーソンが話していたことも、大学の先生が話していたことも、授業レベルではなく生き方レベルの『学び合い』という意味で、全部つながっているなぁと思えてきました。おもしろいなぁ。
結局、人。やっぱり、生き方。
おやすみなさい。