田舎教師ときどき都会教師

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妹尾昌俊・工藤祥子 著『先生を、死なせない。』より。敵は義務教育標準法にあり。

 もっとも、義務教育標準法ができた1958年当時は、1コマの授業にだいたい1時間程度の授業準備がかかるであろうという前提で文部省はいたことが、国会答弁でも明言されています。
 現在の公立学校教員の1週間の勤務時間は38時間45分なので、仮に1週間の担当授業が20コマだとすれば、授業と授業準備だけで勤務時間が一杯になります。当時の考え方と給特法上の時間外勤務命令が制限されている趣旨を尊重するなら、いまのような小学校教員、中学校教員の授業コマ数を詰め込むということには、本来ならないはずです。
(妹尾昌俊・工藤祥子 著『先生を、死なせない。』教育開発研究所、2022)

 

 こんにちは。いろいろ勉強していくうちに、よく言われている「敵は本能寺にあり」ではなく、「敵は給特法にあり」でもなく、どちらかというと「敵は義務教育標準法にあり」という気がしてきました。1971年に成立した給特法が前提としていた残業時間は8時間/月。そして1958年に成立した義務教育標準法が前提としていた授業準備の時間は1時間/コマ。

 

 楽園でしょうか。

 

 授業準備の時間についていえば、2022年の前提は1コマ5分(司法判断)です。令和の教員は1958年当時の教員よりも12倍のスピードで働いているということになります。スーパーサイヤ人どころではありません。

 

 猛スピードで教員は。

 

 12倍のスピードで働いているのにもかかわらず、令和の小学校の教員の平均残業時間は過労死ラインを超える90時間/月というのだから、そりゃ、織田信長じゃなくても死んでしまいます。教師崩壊とはよくいったもの。教育研究家の妹尾昌俊さんが同タイトルの本を書いて警鐘を鳴らしたくなるのも当然でしょう。

 

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 本年度は4年生の担任をしていて、1週間の担当授業は25コマです。家庭科専科のいる5・6年生の担任よりも詰め込まれています。息つく暇もありません。1学期の終業式が終わり、ようやく息をつけたと思ったら、その日の夜に発熱。で、コロナ陽性。通知表の所見に追われ、睡眠時間が削られ、免疫力が落ちていたのだと勝手に振り返っています。もしも私が過労死したら、長女と次女もきっとこういうでしょう。

 

 私は、父は殺されたと思っています。

 

 

 妹尾昌俊さんと工藤祥子さんの『先生を、死なせない。』を読みました。副題は「教師の過労死を繰り返さないために、今、できること」です。第1刷の奥付には「教師の過労死を防ぐために、今、できること」とあって、おそらく最初は「防ぐ」だったのだと思います。では、なぜ「繰り返さない」に変わったのか。

 工藤さんは07年にパートナー(横浜市の公立中学校教員)を過労死で亡くしています。旦那さんは当時、まだ40歳。しかも娘さんが二人いるというのだから、我が家と似ていて身につまされます。

 

 私は夫が他界した後、小学校の教師として勤務していましたが、その時の退勤時間はだいたい午後9時前後でした。私が忙しく、父親がいない喪失感から、その時高校生だった長女の帰宅時間も遅くなり、小学校高学年になった次女が家に一人きりになり、毎日午後8時になると次女から、「今日も1人でご飯を食べないといけないの? まだ帰れないの?」と電話ががかってくるようになりました。

 

 その後、工藤さんも過労で倒れたそうです。続けて《それだけ教師の仕事の多忙さは、当たり前の日常となっているのだと感じます》とあります。長時間労働で旦那さんを失っているのに《午後9時前後》に帰宅だなんて、おかしい。おかしいというか、持ち帰り仕事もあるだろうから、その日常は完全に麻痺している。だからこその「繰り返さない」という言葉の選択でしょう。

 

 目次は以下。

 

 第1章 教師の過労死等の現実
 第2章 教師の過労死等は何に影響するのか
 第3章 なぜ、学校と教育行政は過労死、過労自殺を繰り返すのか
 第4章 いま、何が必要か ―― 識者との意見交換を通じて
 第5章 教師の過労死等を二度と繰り返さないために

 

 第1章の「教師の過労死等の現実」には、工藤さんの過去と同様に重たいエピソードが《こういうつらい話が続くと、本書を閉じてしまう人も多いかもしれません》というレベルで並んでいます。ベテランの先生が校内での研究会中に倒れて亡くなったり、新任の先生が焼身自殺や練炭自殺をしたり、お子さんのいるミドルの先生が命は取り留めたものの四肢まひや発語不能などの障害が残って全介助が必要な状態になったり。地方公務員の中で、教職員の過労死は突出して多いとのこと。過労死に限らず、毎年350人~500人の先生が亡くなっているとのこと。全国どこの学校で起きても不思議ではないとのこと。私の勤務校にも1学期中しばしば「頭痛が止まらない」と話していた同僚がいました。頭痛が止まらないのに出勤して子どもたちの前に立ち続けなければいけないという恐ろしい現実。もしも子どもたちの目の前で倒れて命を落としてしまったとしたら、

 

 トラウマです。

 

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 続く第2章の「教師の過労死等は何に影響するのか」には、「家族への影響」と「児童生徒への影響」、それから「労働環境への影響」の3つが綴られています。父や母、パートナーや我が子が過労死で亡くなったら、担任の先生が過労死で亡くなったら、家族や児童生徒に影響がないはずがありません。では、影響がないはずがないのに、労働環境が変わらないのはなぜでしょうか。

 

 おそらくそれは、知らないから。

 

 私たち教員の労働時間って、電通事件で知られる高橋まつりさんのそれと同じかそれよりも長いって、知っていますか。中原淳さんいうところの残業麻痺って、知っていますか。横浜市の公立中学校で校長をしていた、現・広島県の教育長・平川理恵さんが《横浜市で行っているA研・B研・市研と言われている研究授業もなくしたい》と著書の『クリエイティブな校長になろう』に書いているように、研究授業がらみで過労死している現実がたくさんあるって、知っていますか。

 

 大切なのは、知ることです。

 

 読むと、種々わかります。

 

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 第3章の「なぜ、学校と教育行政は過労死、過労自殺を繰り返すのか」と第5章の「教師の過労死等を二度と繰り返さないために」はセットで白眉です。妹尾さんと工藤さんが、有識者との意見交換(第4章)などをふまえてたどり着いた「過労死等の根本的な要因」は以下の5つ。

 

 ① 実現手段を考慮しない教育政策
 ② ”子どものため”という自縄自縛
 ③ 集団無責任体制、組織マネジメントの欠如
 ④ チェックと是正指導の機能不全
 ⑤ 過ちに向き合わない、学習しない組織体質

 

 第3章で提示されるこれらの要因を、第5章では次のように反転させて、問題解決への道しるべを示しています。

 

 ① 教職員の健康・ウェルビーイングを大切にする制度・政策への転換
 ② 子どものためにも、”自分のため”を大切にする学校職場づくり
 ③ 教職員の健康管理に関する校長責任の明確化、それを下支えする仕組みの構築
 ④ 地方公務員制度を改革し、労働基準監督が機能する体制へ
 ⑤ 過労死等から学び、二度と繰り返さない学校、教育行政に

 

 順番には意味がある。

 

 そう考えると、やはり①が「教師の過労死を繰り返さない」ための一丁目一番地の要因かつ道しるべしょう。ちなみに冒頭の引用、及び「敵は義務教育標準法にあり」というのは①の話です。政策起業家の駒崎弘樹さんの言葉を借りれば《問題にはつねに、それを生み出す構造がある。そしてその構造に着手しなければ、真に社会問題を解決することはできないのだ》という話になります。教員数を定めた「義務教育標準法」に着手しなければ、言い換えると《忙しさや授業準備時間がまったく考慮されていない教員定数の算定》方式を変えなければ、過労死等の問題を解決することはできないということです。要するに人が足りないということですが、繰り返します。

 

 敵は義務教育標準法にあり。

 

 文科省はこんな教育を推進したいという高い理想はどんどん掲げるのですが、その実現のためには、どのくらい(質と量)の教職員や予算(外部委託費等)が必要なのか、資源について検討し、十分に用意してきたとは言い難いと思います。
 
教育行政の専門家である青木栄一教授(東北大学)も、文科省は「『政策実施手段』に無頓着である」とし、「資源制約を考慮せず前線の努力に丸投げする」点が「兵站無視の作戦」と共通していると評しています(『文部科学省』中公新書、2021年、169頁)。
 戦争にたとえるなら、補給もなく、援軍もよこせないまま、「現場(=学校、教委)はもうしばらく辛抱してがんばってくれ」という精神論だけで突き進もうとしています。これでは、精神疾患等になる教員が減らないのも無理はありません。教師の過労死等を防ぐ体制としても、あまりにも脆弱です。

 

 竹槍ではB29に勝てません。1コマ5分では授業準備はできません。週に25コマも、しかも9教科も10教科も担当したら、授業と授業準備(事後を含む)だけで他のことはもうできません。できないのにやろうとするから勤務時間を度外視したノンストップの長時間労働になって先生が死ぬんです。メンタルをやられるんです。家族が悲しむんです。勤務時間と各仕事にかかる時間を計算すれば、その「理」のなさは、小学生にだってわかるはずなのに。人が足りないなら、仕事を減らせ。

 

 わかってますか、管理職のみなさん。

 

 現場にいると校長判断でできることも多いのではないかと思うことがしばしばあります。要因と道しるべでいうと③のところです。勤務校はコロナのときに掃除の回数を減らしました。週に2回、放課後に数人残って10分程度の掃除をするという仕組みにしました。ナイスな校長判断です。指導案(細案)を書いたり、外部講師を呼んだりして行う、いわゆる「研究授業」もなくしました。これもナイスな校長判断です。

 

 通知表の所見だって、年1にできるはず。

 

 

 

 いずれにせよ、60年以上も前に成立した義務教育標準法をそのままにしているなんて、おかしい。先生が死ぬなんて、おかしい。この本では「熱血教師」という表現が何回か出てきますが、熱血教師に限らず、普通の教師だって過労死ラインを超えて働いています。そこには健康的な生活もウェルビーイングもありません。時代の変化に、法律こそが、対応してほしい。

 

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 夏休み明けに『先生を、死なせない。』を同僚に勧めたいと思います。職員会議の資料にさり気なく盛り込もうかな。

 

 敵は義務教育標準法にあり。

 

 手強いなぁ。