鉱山労働者を経て、遠洋航路の船員となって中国、アジア、米国を巡るうちに、ソ連極東の港町ウラジオストクで船を降りて、亡命した。借金がかさんでいたようだ。極東地区の国際会員クラブで活動した後、モスクワの東方少数民族共産主義大学(クートベ)に入学した。当時はスターリンによる粛清の嵐の中で、ムヘンシャンにも危機があったが、回避できたようだ。卒業後、印刷所の植字工や出版社の校正係を経て、モスクワ放送で働くことになった。
(青島顕『MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』集英社、2023)
こんばんは。上記の文章を読みながら、沢木耕太郎さんの『天路の旅人』に出てくる西川一三みたいだなぁと思いました。ムヘンシャンこと緒方重臣の人生も、日中戦争下に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行し、戦後、インドを経て帰国した西川一三と同様に、波瀾万丈に過ぎます。
本になるくらいに。
先日、打ち合せのために再会した友人も、西川一三や緒方重臣とは比較できないものの、本になるくらい波瀾万丈の人生を生きています。内田麻衣子さんと飯田かすみさんが書いた『80人の海外成功物語』(光文社、2005)に登場する成功者のうちの一人。昔々、同じ中学校に通っていました。
縁は、育むもの。
一時帰国している友人と打ち合わせをした。友人はロス在住のミュージシャン。今度、キャリア教育の一環で授業に来てもらう。中学生のお子さんも一緒だった。ギフテッドのクラスにいるらしい。平日の6時間目は全部オーケストラの授業と話していた。公立だ。日本と違いすぎて驚く。分厚いパンにも驚く。 pic.twitter.com/nkY63MAhyO
— CountryTeacher (@HereticsStar) June 16, 2024
我、アメリカと日本の架け橋とならん。
青島顕さんの『MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』を読みました。第21回 開高健ノンフィクション賞の受賞作。MOCTとは、ロシア語で「架け橋」のこと。東西冷戦下にモスクワ放送局の日本課から「ソ連」を伝え続けた日本人たちを描いた作品です。彼らはどんな人物だったのか。何を目的としていたのか。海外成功物語だったのか、それとも海外失敗物語だったのか。
我、ソ連と日本の架け橋とならん。
青島顕さんの『MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』読了。MOCT(モスト)とは架け橋のこと。かつて、ラジオを通して、ソ連と日本の架け橋になろうとしていた日本人がいた。作家の佐藤優さんのような《送り手の熱意に応える熱心なリスナーもいた》。子どもたちにも伝えたい歴史です。#読了 pic.twitter.com/iHsaQzk7nP
— CountryTeacher (@HereticsStar) June 17, 2024
目次は以下。
第1章「つまらない放送」への挑戦
第2章 30年の夢探しの旅
第3章 偽名と亡命と
第4章「日本人」のままで
第5章 迷いの中を
第6章 望郷と、ねがいと
第7章 伝説の学校「M」
第8章 その後の2人
番 外 ラジオが孤独から救ってくれた
著者である新聞記者の青島さんは1966年生まれ。高校生のときにモスクワ放送のニュースをたまたま耳にし、日本とは体制が思いっきり異なる「ソ連」という《国の見解を日本人が放送しているらしいことが気になった。いったいどんな人が、どうして――。》と疑問に思ったとのこと。その疑問を40年近く熟成させたというのだから、おもしろくないはずがありません。
人の声であるラジオを通じて、理解に苦しむことの多い隣国の一面を日本に伝えた人たちの物語を届けたい。
届きました。
おもしろさのネタバレにならないよう、二人だけサラッと紹介します。一人目は、第1章「『つまらない放送』への挑戦」に登場する西野肇さん。西野さんは25歳の若さでモスクワに渡り、ブレジネフ時代の1973年から10年間という長きにわたってモスクワ放送のアナウンサーを務めます。当時のロシアでは西側のロックは御法度だったにもかかわらず、ビートルズの『ソ連に帰還』を流したり、生放送は御法度だったにもかかわらず、生放送風の演出をしたりするなど、つまらない放送への挑戦を続け、売れっ子になったとのこと。クリエイティブとは、
勇気のこと。
「誰でも行けそうなところ、たとえばイギリスなんかだったら行かなかったでしょう。けどソ連なら、おれがやるしかないな」
そこに行けば、人とは違う何かができるんじゃないか。好奇心が刺激された。
東西冷戦下にイギリスやアメリカを始めとする西側ではなく「ソ連」に行くわけですからね。人と違う選択肢をとるという意味で、モスクワ放送の日本人たちの共通点のひとつは、間違いなく「勇気」でしょう。
教員も、そうありたい。
西野さんの場合は海外成功物語として読めますが、海外失敗物語として読める日本人も出てきます。例えば、第6章の「望郷と、ねがいと」に出てくる中川公夫さん。中川さんは、西野さんがモスクワで活躍しているときに、モスクワ放送のもう一つの拠点であるハバロフスク支局に、24歳でやって来ます。西野さんとほぼ同じ年齢での赴任ですが、中川さんは西野さんのようには仕事を楽しめず、
たった2年で帰国することに。
人間関係にも苦労した。1950年生まれの中川さんに対して、ほかの3人はいずれも1920年代生まれの大先輩だった、中でも吉田さんが厳しく、中川さんは訳し方を注意されることがよくあったという。
もしも中川さんがハバロフスク支局ではなく、モスクワで働いていたとしたら。海外失敗物語は海外成功物語に変わっていたかもしれません。スピノザ風に言えば、すべては組み合わせであり、善い組み合わせと悪い組み合わせがあるだけですから。
個人の能力ではなく、組み合わせ。
昨夜、勅使川原真衣さんのトークイベントに参加し、そこで「個人の能力ではなく、組み合わせ」という話を聞きました。新刊の『働くということ 「能力主義」を超えて』の内容に絡めた話です。スピノザの見方・考え方も出てきました。
喜びをもたらす組み合わせ。
昔々、同じ中学校に通っていた友人は、海外(アメリカ)で、どんな組み合わせを見つけたのか。今度、学年の子どもたちに話してもらおうと思います。同級生とのコラボ授業、
おれがやるしかないな。
おやすみなさい。