田舎教師ときどき都会教師

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内田樹 著『複雑化の教育論』より。子どもの成熟は通知表では測れない。どうして、子どもたちをそんなに急かすんですか?

 この四半世紀の間に、日本人の知的水準は劇的に低下しました。知性の発現が制度的に抑圧されている。もちろん潜在的には知性は豊かにあるんです。でも、それを発動できないでいる。
 最大の理由は「話を簡単にする人が賢い人だ」というデタラメをいつの間にかみんなが信じ始めたからです。話を簡単にして、問題をシンプルな「真か偽か」「正義か邪悪か」「敵か味方か」に切り分けて、二項の片方を叩き潰したらすべての問題は解決する・・・・・・というスキームをみんなが信じ始めた。
(内田樹『複雑化の教育論』東洋館出版社、2022)

 

 こんばんは。わかりやすさの罠にはまって、そのスキームをみんなが信じ始めた結果、一億総白痴化が進んだというのが内田樹さんの見立てです。授業のはじめに「めあて」を黒板に書くといった学校スタンダードや、校内研究における「仮説ー検証」スキームなど、単純化の教育論をみんなが信じ始めた結果、教員の劣化が進んだという学校現場の話と重なります。枠組みに自覚的にならない限り、知的水準の低下は止まりません。法的な作成根拠も文部科学省の関与もない「校長の裁量に基づく保護者への学習状況連絡票」の作成に相も変わらず膨大な時間をかけ、肝心の授業を疎かにしているという倒錯的事態もその現れでしょう。

 

 通知表のことです。

 

 

 勝手に苦しんだ結果、まるまる一ヶ月もブログから遠ざかってしまいました。ちなみに《潜在的には知性は豊かにあるんです》というのは、村上春樹さんが柴田元幸さんとの対談の中で《知性の質の総量っていうのは同じなんですよ》と話していたことをベースにしたものだと思います。世界のハルキムラカミが《ただ時代時代によって方向が分散するだけなんです》と話していた「知性」が、分散どころか、発動すらされていないなんて、どこからどう見ても悲劇です。では、豊かな知性を発動させるにはどうすればいいのか。

 

 

 内田樹さんの『複雑化の教育論』を読みました。副題をつけるとしたら「わかりやすさの罪」でしょうか。そう思ったのは、この本を読んだ後に武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』を読んだところ、単純化する社会に警鐘を鳴らしているという点で、重なるところがたくさんあったからです。

 

 目次は以下。


 第一講 複雑化の教育
 第二講 単純化する社会
 第三講 教師の身体

 

 第一講の「複雑化の教育」には、学校は子どもたちの成熟を支援する場であり、成熟とは複雑化のことですよということが全方位的に書かれています。換言すると、教育の成果とは別人になるということ。内田さんは《士別れて三日ならば即ち更に刮目して相待つべし》という台詞で有名な、『三国志』に出てくる「呉下の阿蒙」という話を引いて説明しています。

 

 成熟=複雑化=別人になる

 

 初任だった頃のことを思い出します。小学2年生のある男の子の所見の下書きに「いつも笑顔で過ごしていました」と書いたところ、当該箇所に下線が引かれ、太字で「バカなの?」と朱が入った状態で戻ってきたんです。直球で指導してくれた教務主任が言いたかったことは、いつも笑顔で過ごしているような単純な子どもなんていないということ。喜怒哀楽、人間はもっと複雑だぞ、と。その複雑さを、すなわち成熟を見取ってこその教師だぞ、と。解像度をもっと高めていかないと、わかりやすさの罪を犯すことになるぞ、と。

 

 人格が多層化する。目の前の出来事を捉える時の視座が増えると、立体視できるようになる。そうやってしだいに「一筋縄では捉えられない人間」になってゆく。それが成熟ということです。

 

 現在担任している6年生の子どもたちは40人。一筋縄では捉えられない人間の成熟の様相を年3回、300字前後で40通りも書くなんて、それもわかりやすく書くなんて、毎日のように6時間フルコマで授業をしている担任にはとても無理です。無理が通って道理が引っ込むから「おはようございます(!)といつも朝から元気いっぱいに気持ちよいあいさつをすることができます」なんていう、ネットにあがっている紋切り型の文例をコピペする教員が後を絶たないんです。

 

 いつも朝から元気いっぱいって、バカですか?

 

 一筋縄では捉えられないということは、わかりにくいということです。わかりにくさを複雑なままときほぐそうと思ったら、所見ではなく面談で、保護者と直接話をした方がいい。武田砂鉄さんは『わかりやすさの罪』に《理解を定めるために言葉があるのではなくて、理解に至らせないために言葉が存在するのではないか》と書いています。その理路がわかる理性的な社会になってほしい。そしていい加減、

 

 盲目的なブルシット・ジャブをやめたい。

 

 第二講の「単純化する社会」には、教師の「ブルシット・ジャブ」のことが書かれています。ブルシット・ジャブというのは無意味なタスクのこと。通知表の所見なんて最たるものでしょう。

 

 もうずいぶん前からのことですけれど、日本の組織は、イエスマンシップを以て能力考課に代えることにしました。部下がイエスマンかどうかを査定するためには確実な方法があります。無意味なタスクを命じることです。上位者の命令であるというだけの理由で、黙々と無意味なタスクを実行する者を昇進させ、「こんな仕事、意味ないですよ」と抗命する部下は排除する。そういう人事考課を30年ほどやってきた。そしたら、こんな社会になった。

 

 こんな社会というのは、統治機構の上から下までイエスマンにあふれた、短期的には効率のよい社会のことです。そして、上の指示がなければ、何も決めてはいけないというのが、出世した人たちの内在的論理になります。経営反省のときに「こんな仕事、意味ないですよ」と通知表の所見を年1回にすることを抗命しても聞き入れられないのは、なるほど、そのためだったのか。内田さん曰く《統治システムは「非活動的」の上で安定する》云々。子どもたちをイエスマンにしてしまう管理・統制型の担任のクラスが安定するロジックと似ています。短期的には安定する。でも、長期的にはダメになる。理由はもちろん、知性の発動が抑圧されるからです。

 

 

 第三講の「教師の身体」には、内田さんの半生を振り返りつつ、子どもにとって大切なことが書かれています。それは例えば、先生に個体識別されたという実感であったり、思いもかけない出来事に巻き込まれることであったり、贈与は受取人の想像力から始まるという、近内悠太さんいうところの想像力であったり、要するに国語や算数などのコンテンツではないということです。通知表に載せる各教科の3観点の成績なんて、ABAだろうがBBAだろうがBBCだろうが、本当はどうだっていい。どうして、教員をそんなことのために時間外まで働かせるんですか。

 

「生きていてくれるだけでいい」というのは、僕の育児方針ですけれども、どうしてそれじゃいけないんですか。ある学期の成績なんかどうだっていいじゃないですか。生きていれば、そのうち「バイ・アクシデント」で「呼びかけ」を聴き取って、進むべき道を自分でみつけてくれるんですから。それまでは気長に、のんびり待ってあげればいいじゃないですか。どうして、子どもたちをそんなに急かすんですか。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 先日、最後の保護者会のときに、村上春樹さんの言葉を引いて「よく育つものは、ゆっくり育つ」という話をしたところ、後日、勇気づけられましたというコメントを保護者からいただきました。豊かな知性を発動させるためには、焦らないこと、子どもを急かさないこと、ゆっくりと別人になっていく我が子の姿を、関心をもって見守ること。

 

 明日は卒業式予行練習です。

 

 おやすみなさい。

 

 

わかりやすさの罪