田舎教師ときどき都会教師

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武田砂鉄 著『わかりやすさの罪』より。わかりやすい授業より、反復的に思索せざるをえない授業を創ろう。

そのNHKの『クローズアップ現代』で23年もの間キャスターを務めてきた国谷裕子が、番組の役割をどう規定していたかといえば、「物事を『わかりやすく』して伝えるだけでなく、一見『わかりやすい』ことの裏側にある難しさ、課題の大きさを明らかにして視聴者に提示すること」(国谷裕子『キャスターという仕事』、岩波新書)なのであった。国谷は、辺見庸の言葉「もっと人々に反復的に思索せざるをえない状況というものを作れないものなのか」などを引きながら、「わかりやすさ」に固執する姿勢に対し、慎重に異議申し立てをしていく。
(中略)
 国谷もまた、是枝裕和がしきりに「わかりやすさ」によって削がれてしまうものがある、「わかりにくさを描くことの先に知は芽生える」としていることに共鳴している。
(武田砂鉄『わかりやすさの罪』朝日新聞出版、2020)

 

 こんばんは。武田さんと国谷さんと辺見さんと是枝さんが市の教育委員会にいたら、きっと「わかりやすい授業だったか」という項目を授業参観後の保護者アンケートから削除してくれるような気がします。

 

 わかりやすい授業 △
 反復的に思索せざるをえない授業 〇

 

 高校のときの遠い同窓の先輩に倣って、私がしきりに「わかりにくさを描くことの先に知は芽生えるのだから、わかりやすい授業だったか(?)という項目は罪でしょう。反復的に思索せざるをえない授業だったか(?)にしましょう。わかりやすくするために、モヤモヤが残る授業だったか(?)でも構いません」と異議申し立てをしても、管理職は「市で決まっている項目だから変えられない」とにべもありません。おかげで、本年度もまた「わかりやすい授業」という亡霊が学校を徘徊することに。物事を「わかりやすく」して伝えるだけでなく、一見「わかりやすい」ことの裏側にある難しさ、課題の大きさを明らかにして子どもたちに提示することを教員の役割として規定している私にとって、わかりやすい授業でしたか(?)という項目は、2016年の国谷さんの『クロ現』の降板と同じくらい受け入れがたく思います。学校とメディアがわかりやすさに固執した結果、因果関係はわかりにくいかもしれませんが、国谷さんが『クロ現』から削がれてしまったんですよ、と叫びたい。

 

わかりやすさの罪

 

 武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』を読みました。悪いのはプーチン大統領だ(!)、ゼレンスキー大統領は正義のヒーローだ(!)みたいなわかりやすさにあらゆる角度から警鐘を鳴らしている一冊です。以前から「わかりやすい授業」という言葉に違和感を抱いていた私にとっては、縁軍来たるみたいな一冊でもあります。

 

 ウクライナは善で、ロシアは悪。

 

 そんな「わかりやすさ」を提示する担任よりも、プーチン大統領からは世界がどのように見えているのだろう、ロシアの庶民はどう思っているのだろう、ウクライナの政治家はこれまでにどのようなことをしてきたのだろう、そもそもウクライナってどんな国なのだろうと、視座を移動させつつ「わかりにくさ」を問いのかたちにして提示する担任の方が、子どもたちの成熟、すなわち内田樹さんいうところの「複雑化」に寄与することは間違いありません。教育の目的は子どもたちを複雑化すること。内田さんは新刊の『複雑化の教育論』の中でそのようなことを述べています。つまり、善悪二元論に代表される「わかりやすさ」や「単純化」が罪なのは、それが子どもたちに対して、あるいは国民に対して、教育とは逆の作用を及ぼしてしまうからです。パラフレーズすると、民主主義を破壊するということ。罪を悪に置き換えて詩を援用すると、

 

 隠された悪を注意深く拒むこと。

 

www.countryteacher.tokyo

 

つまり、わかりやすい解説ばかりしていると、自分はどう思うんだ、と考えることができなくなる。このことは「わかりやすさの罪」の最たる例として語ってきたことだが、つまり、「何かを言うことは最後通告のように行ない、実はそれが話のはじまりであることに気がつかないことが多い」、という事例そのものになってしまっている。

 

 これは池上彰さんの話です。自分の意見を封印してわかりやすい解説に全集中した結果、自分の意見がもてなくなってしまったとのこと。おそろしい副作用です。自分の意見で生きていこう(!)というタイトルの本を出したばかりのちきりんさんもきっとびっくり。

 わかりやすい解説やわかりやすい授業には無駄な言葉がなく、東浩紀さんいうところの《郵便的誤配》が期待できません。ゴールまで一直線に突き進んでいくことから、河合隼雄さん(1928-2007)いうところの《最後通告》になってしまい、平田オリザさんいうところの《わかりあえないことから》はじまるコミュニケーションも期待できません。

 池上さん、河合さん、平田さん、等々、武田さんは「わかりやすさの罪」に自覚的な文化人の見方・考え方に触れながら「わかりやすさの罪」を説いていきます。内田さん、東さん、ちきりんさんは私が加えました。固有名詞で通用するこんなにも多くの人たちが、同時多発的に「わかりやすさの罪」を訴えているということは、余程の喫緊事なのでしょう。日本社会はどんどん単純化し、民主主義はどんどんダメになっている。だから、やはりこう思います。

 

 わかりやすい授業は罪。

 

 おやすみなさい。