田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

ちきりん 著『自分の意見で生きていこう』より。反応より意見。調べるより考える。

 ドキュメンタリーやドラマだけでなく、多くの人がお手軽だと感じがちなワイドショー番組でさえ、作り手は多くのことを考えています。たかだか30分ほどの番組であっても制作するのは大変です。つまりテレビの作り手は「必死で考えている人たち」なのです。
 でも、その番組を観て反応している人は、反応に1秒も思考しません。誰かが作った動画や書いたブログ、映画や音楽などに「ひどいな!」とか「すげぇな!」と「反応」するのは極めて簡単です。
(ちきりん『自分の意見で生きていこう』ダイヤモンド社、2022)

 

 こんばんは。新型コロナの第6波が学校を襲い、真綿で首を絞めるようにとか、櫛の歯が欠けたようにとか、そういった表現がぴったりの状況が続いています。国語の授業で「真綿で首を絞めるように」と「櫛の歯が欠けたように」の使い方を現実に即してタイムリーに教えることができたのはよかったものの、喜べません。

 

 酸欠です。

 

 

 学校も大変ですが、保護者にとってもこの感染状況の中で我が子を登校させるか、欠席させるかは頭を悩ますところでしょう。正解はありませんから。では、正解のない問題に答えを出すためにはどうすればいいのでしょうか。

 

 ちきりんさんに訊いてみよう。

 

 

 ちきりんさんの新刊『自分の意見で生きていこう』を読みました。曰く《「これからの世の中を生き抜くために必要とされる根幹の力」について解説するシリーズ》の4冊目にして完結編です。別の言い方をすると「ちきりんの作り方」シリーズとなるでしょうか。ちなみに1冊目が『自分のアタマで考えよう』で、2冊目が『マーケット感覚を身につけよう』、3冊目が『自分の時間を取り戻そう』です。どれもこのブログを始める前に読んだ本なので、いずれ再読して紹介しようと思います。目次は以下。

 

 はじめに
 第1章  「意見」とはなにか、なぜ必要なのか
 第2章  「反応」だけではダメな理由
 第3章 SNS時代に「自分」を創る
 第4章 生きづらさから脱出しよう
 第5章 リーダーシップの最初の一歩
 第6章 オリジナルの人生へ
 練習編  「意見」をもてるようになる4つのステップ
 おわりに

 

 第1章から第6章までをラディカルに要約すると次のようになります。世の中には「正解のある問題」と「正解のない問題」がある。学校教育が得意とする「正解のある問題」は「調べるべき問題」であり、正解はひとつだからそもそも論として自分の意見をもつことはできない。一方の「正解のない問題」は「考えるべき問題」であり、正解はないからそもそも論として自分の意見が必要とされる。これからの世の中を生き抜くためには「正解のない問題」を解く力、すなわち意見をもつことが必要とされているのに、残念なことに自分の意見を言語化できる人は少ない。多くは「反応」で満足してしまっている。

 

 つまり現在は「1億総発信時代」などではなく、より正確には「1億総反応時代」なのです。

 

 いいね(!)みたいな毒にも薬にもならない「反応」を積み重ねたところで、Twitterのフォロワーは増えないし、このSNS時代に「自分」を創ることもできない。もっといえば、正しい人生というプレッシャーが生み出す「生きづらさ」から脱出できないし、意見をもった「仲間」として認めてもらえるために必要なリーダーシップをとることもできない。要するに、ちきりんさんのようなオリジナルの人生を送ることはできない。オリジナルの人生を送るということは、自分の意見で生きるということだから、タイトルに戻って、

 

 自分の意見で生きていこう。

 

 大枠はそういうことです。オリジナルの人生を楽しむために、「反応」ではなく「意見」を、「調べる」よりも「考える」を大切にしよう。では、自分の意見で生きていくという、一見すると当たり前のことができないのはなぜでしょうか。ちきりんさんはその原因を学校的価値観に求めます。

 

 日本の学校は、算数の計算や理科の法則だけでなく、人生のさまざまな選択についてまで、あたかも正解があるかのように教えます。たとえば、「しっかり勉強していい学校に入り、卒業後は正社員として安定した職につき、家庭をもって子供を育てるのが幸せになるための正しい生き方である」といった具合です。

 

 人生のさまざまな選択に「正解」なんてないのに、多くの人が「学校的価値観」に汚染され、正解主義にとらわれてしまっている。考えるべき問題にも正解を求めてしまい、全方位的に思考停止してしまっている。

 

 サヨナラ、学校化社会。

 

 上野千鶴子さんの『サヨナラ、学校化社会』が世に登場したのが2002年です。あれから20年。今なお学校的価値観が日本の社会を覆っているというわけです。おそるべし学校教育。だからこそ、教員の質はメチャクチャ大事なはず。

 

 

 正社員なら教員になりたい人は十分に存在しているというところに違和感をもちました。年齢制限を撤廃し、応募してくれるなら誰でもウェルカムみたいな酷い状況が現場を疲弊させているからです。量に走った結果、質はついてこず。

 

 だから決して、十分ではない。

 

 正解のない問題を考えることを楽しみ、その楽しみ方を子どもたちに教えることができるような「自分の意見で生きている」人を採用しない限り、学校的価値観はこれからも日本の社会を汚染し続けるように思います。小学校についていえば、「考え、議論する」道徳にせよ、総合的な学習の時間にせよ、それから国語の授業にせよ、自分の意見をもつことを促す場面、つまり正解のない問題を扱う場面は、昔よりも格段に増えています。ちきりんさんのような人が現場にいれば、大きな変化が期待できるのに。繰り返しますが、

 

 だから決して、十分ではない。

 

 さらにいうと、本当の問題は、中学校と高校に「正解のある問題」を強いている受験的価値観(受験のシステム)だと思うのですが、どうでしょうか。

 

 学校的価値観 → 受験的価値観。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 先日、クラスの子どもたち(小学6年生)に「反応」と「意見」の違いを教えた上で、練習編の「『意見』をもてるようになる4つのステップ」に載っていた問いのひとつ《義務教育への飛び級制度の適用について》を一緒に考えました。具体的には《日本の義務教育にも飛び級制度を導入すべきだ。アメリカのように、よくできる子は15歳くらいで大学に入学できるようにすべきだ》という問いです。どのようなステップでこの問いを楽しんだのかといえば……。

 

 正解は、ちきりんさんの本の中に。

 

 あれっ、これって正解主義?

 

 おやすみなさい。