田舎教師ときどき都会教師

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広田照幸 著『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』より。教育は、君と世界をどう変えるか。

 目先の利益とか、自分の家族のことだけに気をとられているような、いまの大人たちは情けない。学校の先生も、テストのこととか入試のことばかり口にするような先生には期待できません。
 私は若い世代の皆さんに期待をしたい。どうか、「家庭・友人・学校のありふれた日常」を超えたところで〈自分探し〉をしていってください。皆さんには、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(教育基本法)になってほしい。よりよい世界を作り出すためには、若い皆さんの力が必要なのです。
(広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』ちくまプリマ―新書、2022)

 

 こんにちは。昨日、土曜授業の帰りに映画を観ました。深田晃司監督の『LOVE LIFE』です。自分探しをしに行ったわけではありませんが、月曜日から土曜日まで「家庭・友人・学校のありふれた日常」にまみれると、さすがに偏ります。偏ったら、映画を観る。映画館の非日常を利用して、気分をニュートラルポジションに戻す。村上春樹さんいうところの《自己療養へのささやかな試み》です。このブログもそうかもしれません。それにしても、矢野顕子さんの同タイトルの歌に着想を得たという映画『LOVE LIFE』、よかったなぁ。

 

 お勧めです。

 

映画『LOVE LIFE』(深田晃司 監督作品)

 

 映画『LOVE LIFE』と同様にお勧めなのが、広田照幸さんの新刊『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』です。2つの「なぜ」にみなさんはうまく答えられるでしょうか。

 

 

 広田照幸さんの『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』を読みました。ここ数年は研究者向けの学術論文を書くことに専念していたという著者が、久し振りに私たちに向けて書いてくれた一冊です。しつけの変遷から子育てを問い直した『日本人のしつけは衰退したか』や、教育にできることとできないことを説いた『教育には何ができないか』などと同様に、むずかしいことがやさしく、やさしいことが深く、深いことが面白く書かれていて、

 

 読みやすい。

 

 目次は以下。

 

 はじめに
 第1章 教育と社会化
 第2章 学校の目的と機能
 第3章 知識と経験
 第4章 善人の道徳と善い世界の道徳
 第5章 平等と卓越
 第6章 人間とAI
 第7章 身の周りの世界とグローバルな世界
 おわりに

 

 目次を見るとわかるように、全ての章が「AとB」というかたちで書かれています。おそらくはタイトルに含まれている「退屈と大切」もそのかたちを意識したものでしょう。ちなみにこのスタイルは、政治思想史研究者の故・坂本多加雄さんが『市場・道徳・秩序』などで採用していた書き方を参考にしたそうです。「A」だけについて論じるよりも、「AとB」というふうにした方が議論が広がりやすいとのこと。ジョン・デューイの『学校と社会』や『経験と教育』、それから第3章で取り上げられている『民主主義と教育』もそういった意図があるのかもしれません。授業でも意識してみようかな。

 

 ジョン・デューイと広田照幸。

 

 

 それはともかく、この条文で私が注目したいのは、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」という部分です。特に「形成者」が重要です。「社会の一員になっていく」とか、「社会に適応していく」ということではないのですね。当然ながら、年寄りの時代遅れの価値観を押しつけるとか、企業が使い捨てにできる従順な労働力を期待する、といったことでもないのです。いわば、「一人ひとりが未来の新しい社会を作り出していく主人公のような存在になること」が目指されているのです。皆さんは知っていましたか。

 

 第2章の「学校の目的と機能」より。ここがこの本の白眉です。冒頭にある《この条文》というのはもちろん教育基本法の第一条のこと。広田さんが重要視している「形成者」と、ジョン・デューイが『人間性と行為』に書いた「鶏と卵」の話は同じですよね。ちょうど1年前のブログに、教育の最上位の目的は自律であると主張する工藤勇一さんの話を紹介しましたが、自律だけでは足りないということです。

 

 では、最上位のさらに上にある目的は何なのか。

 

 教育基本法に立ち返れば、社会の型をよりよく変えていくことができるような「形成者」を育てていくことこそが教育の最上位のさらに上にある目的となります。私たち教員は、そのことを「知っている」だけではダメで、教育に関するありとあらゆることがこの目的に沿うものなのかどうかを確かめ、もしもそうでなかったら、形成者の先輩としてそれらを「変えて」いかなければいけません。例えば、公立学校教員の残業時間が1ヶ月当たり平均123時間で、7年間変化なし(連合総研調べ、9月7日)というクソ社会を放置しておくのは、

 

 形成者としてどうなのか。

 

 もちろんNGでしょう。それだと「適応者」になってしまいますから。適応者は、社会の型を悪いかたちのまま温存することに手を貸しているって、気づかなければいけません。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 

 社会を治すのが「形成者」であり、それこそが教育の目的です。最後に、タイトルにある2つの「なぜ」に迫ります。まず、

 

 学校はなぜ退屈なのか。

 

 なぜならば《学校知はより広い世界への通路》にすぎず、《世界全体をある角度からコンパクトに縮約した文字や記号ばかりがあふれている場にすぎない》からです。世界は学校よりもでっかい。子どもたちはそのでっかい世界のことを、学校教育だけでなく、親、仲間集団、地域の人、本、パーソナルメディア、マスメディア、都市空間など、さまざまな人や物(社会化エージェント)から学んでいきます。学校教育の影響力は限定的でしかありません。つまりは、限定的ゆえに退屈。相対的ゆえに退屈。記号的ゆえに退屈。では、それにもかかわらず、

 

 学校はなぜ大切なのか。

 

 なぜならば《学校は広い世界へと通じる通路》であり、《学校は、この世界がどうなっているかということを、言語や記号を使って子どもたちに学ばせる役割を果たす》からです。言語や記号というのは、いわゆる《カリキュラム化された知》のことです。社会化エージェーントが多様に存在するとはいえ、世界がどんどん複雑になっていくことを考えたら、経験によっては到達し難い部分を仲間と一緒にコンパクトに学べる「学校という発明」を使わない手はありません。つまりは、限定的ゆえに大切。相対的ゆえに大切。記号的ゆえに大切。

 

 退屈と大切は表裏一体ということです。

 

 それが本質。

 

 いずれにせよ、多くの子どもたちに「勉強がつまらない」というふうに映るのは、学校知の本質です。

 

 今朝、教え子から電話がありました。小学5年生のときの教え子で、現在は高校3年生、受験生です。デザインの道へ進むことを決めたらしく、美術系の塾に通っているとのこと。声のトーンから広い世界を前にしたわくわく感が伝わってきました。狭い世界を経験したからこそ、広い世界を前にわくわくすることができるのでしょう。助走期間があったからこそ、飛べるというわけです。冒頭に引用した広田さんの願いに近づけてパラフレーズすると、教育が、彼女を変える。やがては彼女が世界を変えるかもしれない。

 

 受験が終わったら、お会いできますか? 

 

 もちろん。