田舎教師ときどき都会教師

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内田樹、平川克美 著『東京ファイティングキッズ・リターン』より。安倍、お前だったのか。

平川 そういうことだろうね。マヌーヴァーを演じるための実体が裏側にあるわけなんだけれども、そこがなくなっちゃった。はなからなかったのかな。
内田 どうもないみたいよね。安倍晋三もそんな感じがするしね。おもしろかったのは福田康夫でさ、いまどき珍しく「全身これマヌーヴァー男」でさ、何考えているかわからない。ぼくはああいうのが政治家の本道だと思うんだけど、ああいうスタイルが今は不評なんだよね。
平川 分かりにくいからでしょう。
内田 分かりにくくていいじゃない。あの程度のマヌーヴァーは許容範囲でしょう。あれでも「分かりにくいからダメだ」とメディアは書き立てていたけれど、それはメディアの方がイノセンスにすり寄り過ぎだよ。
(内田樹、平川克美『東京ファイティングキッズ・リターン』バジリコ、2006)

 

 おはようございます。06年の段階では内田樹さんに軽んじられていた安倍元首相ですが、凶弾に倒れた今となっては、その内田さんをして「ものすごい政治家だった」と言わしめるほどにその評価を一変させています。新美南吉の『ごんぎつね』を援用すれば「安倍、お前だったのか」となるでしょうか。もちろん、ごんに対する兵十のそれとは違って、1ミリもよい意味ではありませんが。

 

 安倍、お前だったのか。

 

 河原で少し大きめの石をどけると、蟹や川虫が光に驚いて急にせわしなく動きだします。7月8日の銃撃事件後に発覚した旧統一教会問題や、五輪招致に関する安倍元首相の「絶対に高橋さんは捕まらないようにします」直電などはその典型でしょう。重石をどけたら闇に生きる人たちの営みが明るみに出たというわけです。内田さんは重石たる安倍の存在感を認めた上で「安倍の個人技だった」と話していました。ある意味、安倍晋三こそが「全身これマヌーヴァー男」(マヌーヴァー=策略)だったのかもしれません。念のために繰り返しておくと、1ミリもよい意味ではありませんが。

 

 ちょ、あんないたずらをしなければよかった。

 

 旧統一教会問題については、平川克美さん曰く「日本の戦後史を書き換えなければいけない」くらいのマヌーヴァーです。安倍元首相本人にとってはいたずらレベルの認識だったのかもしれませんが、福田康夫元首相の父親である福田赳夫元首相が文鮮明を絶賛していたことや、日本をコントロールしているといわれている「日米合同委員会」の議長が旧統一教会のメンバーだったことなど、銃撃事件後に明るみになった数々の事実を知るにつけ、そういうのは政治家の本道ではないし、許容範囲でもないでしょうといいたくなります。隣町珈琲の店主であり文筆家でもある平川さんも憤るというか事の重大さに驚きを隠せないようでした。

 

隣町珈琲(2022.9.13)

店内にて


 9月13日の火曜日に、平川克美さんが営む隣町珈琲に足を運んで、内田樹さんとの対談を聞いてきました。普段はラジオデイズ(音声コンテンツ)に収録されている『たぶん月刊「はなし半分」』の公開イベントです。電車の中で『東京ファイティングキッズ』と『東京ファイティングキッズ・リターン』を読み返しながら、

 

 いざ、東京へ。

 

 それにしても、人間て「政治」がほんとうに好きなんだなあと思います。
 どんな話題よりも「熱く」なりますからね。

 

 安倍、お前だったのか。

 

 旧統一教会と自民党との関係を皮切りに、安倍元首相が撃たれた後にこれだけ多くの問題が堰を切ったように噴出しているわけですから、内田さんが「熱く」なって予言をしたり、「安倍の個人技だった」「安倍はものすごい政治家だった」と断言したりするのも頷けます。重石だったんですよね、安倍さんは。しかもその重さの源泉がどこにあるのかが分かりにくい、得体の知れない重石です。内田さんは「岸信介のDNAが~」とか「犬神家の一族のように~」とか、ちょっとオカルトチックな話をしていました。昭和の妖怪ですからね、岸信介は。孫が妖術を使ったとしてもおかしくはありません。

 

「歴史におけるif」を語るというのは、今ここにあるように世界があるのとは違う仕方でも世界はありえたという想像力の使い方です。その「起こりえたけれど、起こらなかった出来事」について、「それはどうして起こらなかったのか?」ということを考えるのはたいせつなことだと思います(これは「白銀号事件」のときのシャーロック・ホームズの推理法ですね。「あの晩、なぜ犬は鳴かなかったのか?」)。

 

 もしも統一教会が存在しなかったら。

 

 教育だって変わっていたかもしれません。民主党政権のときには教育関係予算が年々増加し、23年度には国土交通省予算を文部科学省予算が上回っていましたから。旧宗主国に対して恨み辛みのあるカルト集団が日本の弱体化を意図していたのであるとすれば、教育をよりよくしようとは思わないはずです。

 

 植民地の宗主国が植民地の人間に語学教育をしますね。コミュニケーションができないと不便だから。
 でも、そのときの語学教育の中心は必ずオーラルなんです。文法や修辞学はできるだけ教えようとしない。
 理由は簡単です。
「読み書き」をきちんと教えると、植民地原住民の中から植民者人よりもリテラシーの高い人間が出現してしまうからです。原住民の秀才の中から、宗主国出身の教師を知的に凌駕するものが出てきかねない。

 

 国家百年の計は教育にあり。

 

 先週、下村博文元文部科学大臣が、統一教会系の陳情を「党公約に必ず入れるように」と指示を出していた疑いがあるというニュースがありました。萩生田光一元文部科学大臣に関しては、旧統一教会とズブズブの関係にあったことがすでに報じられています。公立学校教員の残業時間が1ヶ月当たり平均123時間(連合総研、7日)などというひどい状態が長いこと放置されているのも、旧統一教会と政権与党のせいなのではないか。教員を酷使することで民主主義を劣化させているのではないか。そう邪推したくなるのも無理はありません。休日の今日もぐったりとしたまま働かざるを得ませんから。

 

 日本の戦後史を書き換える黒いけむりが、

 

 まだつつ口から細く出ています。