田舎教師ときどき都会教師

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猪瀬直樹 著『死者たちのロッキード事件』より。歴史は繰り返す。ヘロドトスが予言し、猪瀬さんが固めた。

 ロッキード事件は、戦後のさまざまな政治的事件の中でも、とりわけ戦後日本の政治構造をむきだしにしてみせた出来事だった。1976年2月、アメリカ上院外交委員会の多国籍企業小委員会は、ロッキード社が日本に対する旅客機と対潜哨戒機の売り込み工作にあたって、日本の政治家らに多額の賄賂を贈ったという事実を公表した。
 その後の日米双方の調査は、戦後民主主義が定着し、消費社会とビジネス・カルチャーがにぎやかに、また健全に根付いているようにみえた日本社会が、じつはその背後のダーティーな骨格によって支えられていることを明らかにしたのだった。
(猪瀬直樹 著『死者たちのロッキード事件』文春文庫、1987)

 

 こんばんは。10日から12日まで、東北の被災地を回って「人」めぐりをしてきました。コロナ禍になってからは足が遠のいていたので、3年ぶりの「久闊を叙する」旅です。かつて担当した教育実習生に始まり、初任校の恩師を含むもと同僚3人、教え子3人、お世話になった保護者1人とそれぞれサシで会って話すことができて大満足。再会を通して実感したことといえば、現在の「私」が、初任地で得たクリーンな骨格によって支えられているということ。ダーティーな骨格とは無縁だったということ。

 

 政治もそうあればいいのに、と思います。

 

陸前高田(2022.8.12)

 

 写真は「奇跡の一本松」で知られる陸前高田の髙田松原です。3年前にも来ましたが、景色が一変していました。

 

 破壊は創造以上に創造的である。

 

 三島由紀夫の美学にはそういった逆説があったそうです。なるほど確かに、と思います。もしも日本社会が、相も変わらず「ダーティーな骨格」によって支えられているのであるとすれば、内閣改造や働き方改革などの中途半端な言葉ではなく、破壊が必要なのかもしれません。少なくとも懐疑は必要でしょう。

 

 消費社会がにぎやかに演出され、懐疑を知らないビジネス・カルチャーが横溢する現代日本に対するやりきれなさが、著者にはある。荷担すべき積極的価値を持たないままに、この現実を凝視しなければならない不幸こそが、じつはこの本のほんとうの主題なのかもしれない。

 

 懐疑とやりきれなさをバネに、とうとう参議院議員になってしまったのが、昭和58年に出版された『死者たちの統一教会事件』、ではなく『死者たちのロッキード事件』で解説を書いている吉岡忍さんいうところの「著者」こと猪瀬直樹さんです。

 

 

 猪瀬直樹さんの『死者たちのロッキード事件』を読みました。私が生まれる前に起きた事件を題材にしたノンフィクションですが、冒頭に引用した吉岡忍さんの解説にあるように、私が生まれてからも日本社会はずっとダーティーな骨格によって支えられていたのではないか(?)、猪瀬さんが、死者たちの現場を回って「人」めぐりをした末にたどり着いた《ひとりひとりの庶民にとって、ささやかな幸福の分け前を、もう少しもう少しと求める過程の果てで起きたのがロッキード事件であった》という結論は、戦後民主主義的な価値観が続く「今も猶」当てはまるのではないか(?)と、ナチュラルにそう思えてしまう一冊です。とりわけ旧統一教会と政治家とのヤバいつながりが連日報道される現在にあっては、そのようにしか読めません。

 

 目次は以下。

 

 序 章 象徴としての角栄、象徴としての死者 
 第一章 五億円を運んだ男の災厄――笠原政則
 第二章  「航空界のジョン・ウェイン」が遺した火宅――大庭哲夫
 第三章 黒幕を操った日系二世の存在証明――福田太郎
 第四章 空白の遺産――平和のなかの ”戦死者” たち
 終 章 そして角栄だけが残った

 

 ロッキード事件の主役である田中角栄ではなく、黒幕である児玉誉士夫でもなく、脇役たちに光を当てることによって《この疑獄事件の基層に隠されている ”戦後という時代” を捉え直すことにした》というところが、平行して「日本凡人伝」を書いていた猪瀬さんらしい方法論といえます。社会(歴史)の授業でいえば、英雄史観も大事だけど、庶民史観も大事という視点。学級づくりでいえば、目立つ子に注意を奪われがちだけど、目立たない子も大事という視点。2学期以降も、目立たない子に注目して「学級」を捉え直し続けたい。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 疑獄事件に死者がつきものとはいえ、笠原運転手の自殺はあまりにも劇的であった。元首相が逮捕されたことで日本列島に衝撃が走ったところに、いわば死人に口無し、という筋書きがつけ加わったからである。

 

 第一章より。疑獄事件に死者がつきものって、そういうものなのですね。最近でいえば、連想するのは森友事件でしょうか。森友事件でも、ロッキード事件と同じく自殺者が出ています。財務省近畿財務局管財部の上席国有財産管理官だった赤木俊夫さんのことです。笠原政則さんとの違いはといえば、赤木さんには「ダーティーな骨格を糾弾する」手記が遺されていたことでしょう。田中角栄の運転手兼私設秘書だった笠原さんには遺書がなかったことから、自殺なのか他殺なのか、それすらはっきりしません。億単位の現金が権力者の懐に流れていくというダーティーな骨格をたまたま見てしまったために、命を落とすことになった笠原さん。猪瀬さんはそんな笠原さんの生涯を《僕たちの隣人と同じマイホームの夢があり》と綴り、凡人の目に映っていた「戦後という時代」を浮かび上がらせます。

 

 丸紅からの億単位の現金と、七百万円のローンでは較べるべくもないが、それでもあの日本列島改造とオイルショックの嵐で建築資源は急騰し、笠原夫妻は予定外の出費で苦しめられた。田中邸運転手としての十四万五千円の月給では足りない。佐代子は入居するとすぐ臨時雇いの小学校給食婦を志願し、家計を支えた。
 笠原の夢は「子供の勉強部屋のある家」だった。その夢を実現するまでの道のりは、まだ、二人にとっては険しいものに感じられていたはずである。しかし、夢の実現の端緒は確実につかみかけていた。

 

 佐代子さんというのは笹原さんの奥さんのことです。夫婦でがんばって「つかみかけていた」ところだったのに、なぜ自殺なんて。そう考えると《笠原運転手の ”自殺” を語る場合、謀殺説を避けて通ることはできない》となります。実際のところはどうだったのか。詳細は本文に譲るとして、いずれにせよ、真面目に生きてきた凡人が、桁違いのお金を動かしている権力に翻弄された挙句、殺され、忘れさられてしまったというわけです。猪瀬さんは《遺族は死者たちを小さな家のなかで、あるいは心の空洞に不在の空間としてつねに意識しているが、僕たちはそうではない》と書きます。そうではないからこそ、担任が目立たない子の振る舞いをメモに残すように、猪瀬さんも死者たちの残したシグナルをたんねんに読み取り、記録して、私たちに届けてくれたのでしょう。残された私たちが歴史から学べるようにするために。言い換えると、

 

 未来のために。

 

 猪瀬さんは『道路の権力』に《歴史がどう作られるか、多分それはいかに記録されるかで左右される。~略~。正確な記録がフィードバックされる時歴史は次のステップへと這い上がるのだ。》と書いています。第二章以降に登場する死者たちが残したシグナルにも、未来のために、すなわち次のステップへと這い上がるために必要なことがたくさん含まれています。

 

 例えば第二章に登場する大庭哲夫さん。

 

 以下のエピソードがふるっています。

 

 GHQと日本側の双方が同じテーブルについて、打ち合わせることがしばしばあった。そんなある日のこと、”恐れおおくも” マッカーサー連合軍最高司令官が出席していたというのに大庭はいつものように会議で居眠りを始めた。さすがにマッカーサーは、見逃さなかった。
「おまえの名は?」とマッカーサーが大庭に聞く。
「大庭といいます」
「天国の居心地はどうであったか」
「非常に軽快でした、大空を飛ぶ鳥のような気持ちでした」
 会議場のシリアスな空気は一転して爆笑にかわっていた。日本人のメンバーは、ユーモアだけで笑ったのではなかった。翼を奪われたヒコーキ野郎たちの辛い心根を代弁した返答に快哉する気持ちも、当然爆笑のなかにふくまれていたとみなくてはならない。

 

 全日空の社長だった大庭哲夫さんは、部下に《大庭なくして今日の航空界はなかった》と言わしめる人物です。この夏に飛行機に乗って沖縄やら北海道やらに行っている友人が何人もいますが、そんな贅沢ができるのも、大庭さんのおかげかもしれないということです。高速道路のSAやPAで贅沢ができるのは道路公団民営化を成し遂げた猪瀬さんのおかげという話と同じです。

 

 歴史を知れば、公の意識が育つ。

 

 とはいえ、そのような人物でさえも「脇役」として呑み込まれてしまったのだから、おそるべしロッキード事件。第三章の冒頭、猪瀬さんはそのおそろしさを次のように表現しています。めっちゃ格好いい文章です。

 

 河原で少し大きめの石をどけると、蟹や川虫が光に驚いて急にせわしなく動きだす。人間の気まぐれな突然の領海侵犯さえなければ、闇のなかでそれなりの営みを静かに繰り返すことができたのである。ロッキード事件が、アメリカの上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)で明るみに出なければ、”闇に生きる者” たちの営みは、人目に触れることなく続けられたであろう。

 

 旧統一教会と政治家とのヤバいつながりが、安倍元首相の銃撃事件によって明るみに出なければ、”闇に生きる者” たちの営みは、人目に触れることなく続けられたであろう。繰り返しになりますが、戦後民主主義を支えていた骨格がダーティーなものであったことが明らかになった今となっては、そのようにしか読めません。

 

 歴史は繰り返す。

 

 ヘロドトスが予言し、猪瀬さんが固めた。ご先祖様を供養するためにも、このお盆休みに猪瀬さんの『死者たちのロッキード事件』を、ぜひ。