改革は百点でないがゼロ点でもない。百点でなければ辞任、とはおかしい。それならすべての審議会の委員は全員辞任しなければいけないことになる。表向きの美辞麗句の裏に隠された真相を実証的に解明するのがメディアの役割ではないのか。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』ではないが、「鉄屋」「鉄道屋」などと揶揄された委員らの背後にどんな勢力が蠢いていたのか僕は知っていた。個々の委員の発言との関係を疑い出すと眠れなかったぐらいだ。”殺人の動機” がないと明白なのは組織的背景を持たない大宅映子委員と僕だけであった。
(猪瀬直樹『道路の決着』文春文庫、2008)
こんにちは。昨日は土曜授業でした。今日はこれから休日出勤です。わたしたち教員は、いつまでこんな働き方を続けるのでしょうか。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』ではないですが、このままだと教員のなり手がいなくなってしまいます。実際、教員採用試験の倍率は過去最低に落ち込み、精神疾患を理由に退職した教員は過去最多を記録しています。道路と同様、教育も国のインフラです。夏目漱石じゃなくても、すなわち『三四郎』の広田先生じゃなくても、日本は「滅びるね」と言いたくなります。
現実は小説より奇なり。
表向きのやり甲斐アピールの裏に隠された労働実態を実証的に解明するのが裁判所の役割ではないのか。結審に続いての控訴が確定した、埼玉教員・残業代訴訟の原告である田中まさおさん(仮名)の「訴訟の動機」にもそういったことが含まれているでしょう。田中さんは控訴の一番の理由に、裁判官が発した《自主的な業務の体裁を取りながら、校長の職務命令と同視できるほど当該教員の自由意思を強く拘束するような形態での時間外勤務等がなされた場合には、実質的な職務命令に基づくものと評価すべきである》(Twitter、2021.10.9 AM10:09)という言葉を挙げています。
休日出勤が自主的な業務だって?
決着や如何に。
猪瀬直樹さんの『道路の決着』を読みました。前作『道路の権力』と合わせて、読め進めるほどに「現実は小説より奇なり」ということが臨場感とともに伝わってくる作品です。道路公団民営化について、すなわち冒頭の「改革」について、新聞やテレビが伝えていたことは相当にいい加減なものだったんだなということもヒシヒシと伝わってくる作品です。そういった意味では「既存メディアは現実より奇なり」ともいえるでしょうか。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を超える傑作ミステリー兼ノンフィクション。目次は、以下。
第一章 分裂 ―― 2002年
第二章 抵抗 ―― 2003年Ⅰ
第三章 謀略 ―― 2003年Ⅱ
第四章 決断 ―― 2004年Ⅰ
第五章 追跡 ―― 2004年Ⅱ
第六章 摘発 ―― 2005年
終 章 決着
なぜ猪瀬さんが道路の権力と対峙することになったのか。最初に確認のために《そもそもなぜ民営化が必要だったのか》をエピローグから引きます。
技術とコスト削減が我われをとらえた。にもかかわらず高速道路はどうか。クルマと両輪のはずなのにいびつな対応関係にあった。片やカイゼンのトヨタ、片や四十兆円もの借金を累積させた道路四公団。国民経済的な観点から考えれば、ただちに道路公団の高コスト体質を変え、借金を返済し、料金を値下げさせなければならなかった。このまま放置したら高コストの高速道路が発する借金の ”悪臭” が真っ黒い排気ガスとなって日本列島を覆っていたであろう。
現在、日本列島を ”悪臭” が覆っていないのは、猪瀬さんのおかげです。高速道路のSAにスターバックスがあるのも猪瀬さんのおかげです。悪臭の代わりに、わたしたちは珈琲の香りを得たというわけです。
猪瀬さんが道路の権力と対峙するきっかけ、すなわち道路関係四公団民営化推進委員会に就任するきっかけを準備したのは、かの有名な『日本国の研究』です。その『日本国の研究』が『文藝春秋』誌上に掲載されたのは1996年。道路四公団が民営化会社としてスタートを切るのは2005年なので、猪瀬さんは約10年もの歳月をかけて民営化案の閣議決定を達成したことになります。前作『道路の権力』に、民営化案を提起したばかりの猪瀬さんに対して、民主党の菅直人さんが《猪瀬さん、官僚相手の仕事は辛いでしょう。あなたはよく頑張っている。だけどねえ、だいたい半年でみんな投げ出すんですよ》と電話してくる場面があります。
半年どころか、約10年。
改革は、地道な作業の積み重ねである。道路公団改革にはどんな壁があり、それをどう崩したか。敵の妨害工作をどう撥ね除けるか。隠された事実を発掘し、レトリックをどう用いたか。小泉首相にみるリーダーとしての資質は何か。本書から改革のノウハウ、意志と希望をつかんでいただきたい。
歴史がどのようにしてつくられるのかといえば、たぶんそれはいかに記録されるかによると猪瀬さんはいいます。長きにわたる地道な作業が正確に記録されている『道路の権力』&『道路の決着』。教育現場に置き換えれば、働き方改革にはどんな壁があり、それをどう崩すのか。校長にもってほしいリーダーとしての資質は何か。両書は、改革のノウハウと意志、そして希望をつかむにあたって、もってこいの教科書といえます。
分裂、抵抗、謀略とラベリングされている第1章~第3章には、冒頭の引用でいうところの《「鉄屋」「鉄道屋」などと揶揄された委員らの背後にどんな勢力が蠢いていたのか》が書かれています。新美南吉の「ごん、お前だったのか」にマイナスをかけると猪瀬さんの「そうか、鉄道屋だったんだな」になります。7人のサムライと呼ばれた道路公団民営化委員の中に「公」の意識を欠いた《改革派と称する不純物》が紛れ込んでいたなんて、
しかも5人も。
国土交通省の代弁者だったり、JRの利害の代弁者だったり、道路公団事務系の代弁者だったり、注釈はつけませんが、カン十郎もびっくりです。兎にも角にも真のサムライは猪瀬直樹さんと、大宅壮一(1900-1970)の三女である大宅映子さんだけだったというわけです。猪瀬さん曰く《僕と大宅さんは、組織を背景にしていないので、どこの権力ともくっついてない。大宅さんは土日に自分でクルマを運転してゴルフ場に行く。つまり消費者なんです》云々。その大宅さんと馴れ合ったりしないところが猪瀬さんのカッコいいところです。かつて『マガジン青春譜』で父親のことを書いている猪瀬さんに対して、大宅さんはどんな思いだったのだろうな。
真のサムライである猪瀬さんと大宅さんは民営化委員の仕事に責任をもって取り組み、最後までやり遂げます。一方、なんちゃってサムライだった他の5人は投げ出します。猪瀬さん曰く《僕のところには毎日のように殺すぞとか無言電話の強迫があります》というような命を懸ける仕事です。志がなければ続きません。にもかわわらず、報道機関は「道路公団改革は失敗」と囃し立て、投げ出した5人が正義であり、汗を流し続けた2人、特に猪瀬さんのことを「フィクサー」と批判する始末だったとのこと。命を懸けてまで消費者である国民のために孤軍奮闘しているわたしたちの代弁者に対して、ひどいなぁ。能力的にも、倫理的にも、そして昔も今も、既存メディアには問題がある。昨夜の「マル激トーク・オン・ディマンド」(ジャーナリストの神保哲生さんと社会学者の宮台真司さんによるインターネットのニュース番組)でも同様のことが語られていました。
決断、追跡、摘発の第4章~第6章には、道路公団民営化法案が衆議院本会議で可決、成立した以降の闘いが描かれています。成立したから終了、ではないということです。曰く《膿を出すプロセスそのものが民営化である》という言葉通りに、猪瀬さんは道路公団やその下にぶら下がっているファミリー企業の「膿」を追跡、そして摘発していきます。累積被害額300億円超というハイウェイカードの偽造事件然り、道路公団の保養所をめぐる疑惑の追跡然り、そして本書のヤマ場となる橋梁談合事件然り。どれくらいの「ヤマ場」だったのかといえば、その様子がテレビで生中継され、戦後最大の談合事件として記録&記憶されるくらいにです。猪瀬さんはテレビで生中継された奥山裕司理事(公団の人事担当)とのカフカ的なやりとりを振り返って、次のように書いています。カフカ的なやりとりというものがどのような光景を指すのか、ぜひ『道路の決着』を読んで確かめてみてください。
それに較べ、奥山理事が体現する世界、すなわち公団という伏魔殿は、カフカの小説『城』をほうふつとさせる。『城』は難解だが、眼前で繰り広げられている光景は充分に寓話の域に達している。
ちなみに眼前で繰り広げられている光景をテレビカメラに映し出したのは猪瀬さんの作戦です。非公開は権力にとって好都合。情報開示の権利は国民にある。だから公開する。公開しなければ「現実は小説より奇なり」ということが伝わらない。記録しなければ「教員の労働実態」も伝わらない。
記録って、大事。
巻末には田原総一朗さんとの対論が収録されています。ほんとうの「抵抗勢力」は誰か、というタイトルです。教員の働き方改革を考える上で、ほんとうの「抵抗勢力」は誰なのでしょうか。この『道路の決着』を教科書にして、考えていきたいところです。
これから「自主的な業務の体裁を取りながら、校長の職務命令と同視できるほど当該教員の自由意思を強く拘束するような形態での時間外勤務」に向かいます。ちなみに勤務校の校長はとてもとてもいい人です。だからこそ余計にややこしい。
行ってきます。