田舎教師ときどき都会教師

テーマは「初等教育、読書、映画、旅行」

三浦英之 著『災害特派員』より。未来がどうなるのかなんて、結局誰にもわからない。

「今になって色々なことを言う人がいるけれどさ」と渡辺は出てきたソーセージを楊枝の先でつつきながら言った。「当時を知っている人間からすればさ、あの日、自分たちの住む町にあんなに大きな津波が押し寄せてくることを予測できた人なんて、一人もいなかったと思うんだ。だから今でもよく考える。未来がどうなるのかなんて、結局誰にもわからないんだって」
(三浦英之『災害特派員』朝日新聞出版、2021)

 

 こんばんは。先日、朝日新聞の発行部数が400万部を切ったというニュースが流れていました。1年を待たずして50万部ほどの減少になったそうです。10年前には800万部近くの発行部数を誇っていた「天下の朝日」が、単純に計算すると、8年後には廃刊に追い込まれるかもしれないということです。

 先月、内田樹さんと平川克美さんの対談を聞きに行ったときに、内田さんが「10年前、朝日の幹部に危機意識はあるのか(?)と訊ねたところ、ない(!)という返事が返ってきた」と話していました。その幹部が「未来がどうなるのかなんて、結局誰にもわからない」と思っていたのであればまだいいのですが、おそらくは逃げ切れるから何も考えていなかっただけ、というのが実際のところでしょう。教員採用試験(小学校)の倍率が1倍台になっているにもかかわらず、危機意識をもつことのできない各自治体の偉い人たちにも通ずるところがあります。朝日にせよ、学校にせよ、逃げ切れない世代に属しているミドルはどうすればいいのでしょうか。

 

災害特派員

災害特派員

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 三浦英之さんの『災害特派員』を読みました。三浦さんはミドルの年齢(74年生まれ)に属する朝日新聞の記者です。私の師匠が「一緒に震災を生きる意味を考え、何度も取材に応えた人。彼は理解力と人情を併せもつ優秀な記者でした」と絶賛していた記者でもあります。ちなみに私の師匠は三浦さんの震災ルポタージュ『南三陸日記』に登場していて、その話は以下のブログに書きました。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 東日本大震災は2011年、被災地・南三陸町での記録をまとめた『南三陸日記』が出版されたのは2012年、そしてもうひとつの南三陸町日記として書かれたこの『災害特派員』は2021年、震災から10年目の刊行ということになります。

 

 体験を熟成させたということ。

 

 沢木耕太郎さんがバックパッカーのバイブルと呼ばれる『深夜特急』を書くにあたって、実際の旅から10年+α の空白期間を必要としたという話と似ているなと思いました。三浦さんにとっての駐在は、沢木さんにとっての旅行と同じくらい濃いものだったのでしょう。目次は以下。

 

  序章 答えられなかった質問の答え
 第一章 地図のない町
 第二章 社会部員たちとの夜
 第三章 赴任命令
 第四章 南三陸町長の強さと弱さ
 第五章 戸倉小学校と戸倉中学校
 第六章 異端児の挑戦
 第七章 新しい命
 第八章 ライバルとの食卓
 第九章 警察官の死
 第十章 ジャーナリズムとは何か
 第十一章 最後の写真
 あとがき

 この本が売れれば、朝日新聞の発行部数も下げ止まるのではないかと思うくらいに「当たり」でした。大宅壮一ノンフィクション賞の候補作となるも、受賞を逃してしまったのは、あまりにもできすぎていて嫉妬されたからではないかと思ってしまうくらいに「当たり」でした。さらに、勤務校の若手にも読んでもらって、その上で被災地に連れて行きたいと思えるくらいに「当たり」でした。

 

 私は今でも、今回の震災で最も力を尽くしたのは被災地の教師たちではなかったかと思っている。メディアでは震災後、自衛隊や警察官、消防士たちの活躍ばかりが取り上げられたが、被災地の教師たちが彼らと大きく違っていたのは、教師たちの多くが家族を亡くしたり自宅を流されたりした被災者であったにもかかわらず、「それぞれに異なる事情を抱えた子どもたちを受け持つ」という極めて特殊な事情から、自衛官や警察官のように被災地外から派遣されてくる応援要員と交代することができず、休みなく常に第一線に立ち続けなければならなかったという事実である。

 

 第五章「戸倉小学校と戸倉中学校」より。いい人です。当時、戸倉中学校の教頭だった師匠も、きっとそう思ったに違いありません。三浦さんといい師匠といい、それからこの『災害特派員』に登場する被災者や三浦さんの同僚といい、どの章にも「結局、人。やっぱり、生き方。」と思える物語性のある人物が出てくるところに、そしてそれらの人物と三浦さんが豊かな関係性を築くところに、この本の魅力を強く感じます。南三陸町に赴任することになった経緯や、赴任が終わった後の米国留学の話も魅力たっぷりですが、やはり人間模様が「柱」です。冒頭の引用に名前のある「渡辺さん」も、

 

「柱」メンバーのひとり。

 

 冒頭の引用は第十一章「最後の写真」より。この最後の写真というのは、ちょっとネタバレになりますが、2016年度に東北写真記者協会賞を受賞した河北新報社取材班(代表・渡辺龍氏)の「未来へ  笑顔の5歳」を指します。ネットで画像検索すると出てくるので、ぜひ探してみてください。きっと、渡辺さんのことを知りたくなって、この本を読みたくなりますから。

 

 渡辺は撮っていた。あのボロボロになった身体で、最後の力を振り絞って、自分がここで生きたんだという証しを、この世に確かに残していたのだ。
 彼が最後に遺したかったもの ―― それは手と手を結び合って光の中で笑う、子どもたちの風景だった。彼は自らが見た凄絶な「過去」ではなく、自分が見ることのできない「未来」をフレームの中に収めたのだ。
「龍、すごいよ。お前らしい、いい写真だよ・・・・・・」

 

 ほら、読みたくなりませんか?

 

 今日は伯母の告別式でした。もう20歳を過ぎているお孫さんが号泣していました。親族や友人に見送ってもらえるというのは有り難いことです。震災のときに亡くなった人たちや、コロナ禍のひどいときに亡くなった人たちのことを考えると、なおさらそう思います。伯母ちゃんは幼稚園の先生でした。未来を、笑顔の5歳を、たくさん見てきたのだろうな。

 

 伯母ちゃん、おやすみなさい。