田舎教師ときどき都会教師

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布施祐仁+三浦英之 著『日報隠蔽 自衛隊が最も「戦場」に近づいた日』より。喜劇と悲劇。犠牲になるのはいつだって真実。

 開示された日報を読んで私が最も強く思ったのは、このような現地の激しい戦闘の実態や派遣部隊の厳しい情勢認識が2016年7月の段階で公にされていれば、自衛隊の派遣期間延長や新任務付与は果たしてできたのだろうかということであった。
 逆に考えると、だからこそ日報は隠されたのではないか。
(布施祐仁+三浦英之『日報隠蔽 自衛隊が最も「戦場」に近づいた日』集英社文庫、2020)

 

 こんばんは。昨夜、プライベートで参加しているオンラインの読書会(8人)で、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』について話し合いました。映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット 監督作品)の原作として知られる、SFの古典です。

 

www.countryteacher.tokyo

 

 参加者の一人である、某国立大学の産婦人科で働いている医師が、SFの世界と現実をつなげてこう言うんです。曰く「生命(アンドロイド)をつくろうとする動機がわからないし、動機に共感できない」って。普段から生命誕生の現場にいる医師ならではの見方・考え方で、

 

 興味深い。

 

 やはり、学校外の「弱いつながり」(By 東浩紀さん)って大切です。新聞記者の三浦英之さんも「同僚とは飲むな。友だちは社外に」ってポスト(2023.12.11)していました。曰く「我々世代の業界の鉄則」だそうです。続けて曰く「外に出よう、できるだけ価値観の異なる人と飲食し、笑ったり、泣いたり、激しく口論したりしよう」。

 

 語ろう、歌おう。

 

語り・歌う/YEAR END PARTY(2023.12.29)

 

 一昨日は定期的に顔を出している某NPO法人の「語り・歌う/YEAR END PARTY」に参加してきました。途中、2023年の3大ニュースを話す場面があって、鳥山敏子さんの弟子筋にあたる代表理事がこう言うんです。

 

 第1位は、外部とのコラボ。

 

 

 学校も、どんどん外部とコラボすればいいんですよね。職員室や教室にこもって長時間労働なんてしている場合ではないということです。外に開かずに内に閉じていると、それこそフリーランスの布施祐仁さんと組織メディアに属する新聞記者の三浦英之さんがコラボして闘った、某政府のような隠蔽体質になりかねません。

 

 某政府?

 

 日本政府のことです。

 

 

 布施祐仁さんと三浦英之さんの共著『日報隠蔽 自衛隊が最も「戦場」に近づいた日』を読みました。日報隠蔽というのは、一般的には「自衛隊日報問題」として知られ、Wikipediaには《自衛隊日報問題は、自衛隊海外派遣部隊がイラクや南スーダンに派遣されていたときに作成した日報を、すでに廃棄していて存在しないと防衛省・自衛隊が説明していたのに、廃棄されていなかった一連の問題である》と書かれています。

 

 ときは2016年9月30日の金曜日。

 

 日記を紐解くと、私が朝から教頭と口論になっていたあの日、防衛省に対して自衛隊の南スーダンでの日報を「開示せよ!」と先見の明をもって請求していたのが、

 

 布施さんなんです。

 

 しかし、拒否された。廃棄したと言われた。えっ(?)。日報があれば現場の状況がわかるのに、なぜそんなに大事なものを半年も経たないうちに廃棄したんだ(?)。小学校だって誰も読まない指導要録を、作成するのが大変な指導要録を、デヴィッド・グレーバーいうところのブルシット・ジョブとしか思えない指導要録を、指導に関する事項は5年、学籍に関する事項は20年も保存するのに。もしかしたら何か黒い意図でもあるんじゃないか(?)というのが布施さんの見立てであり、冒頭の引用がその答えです。

 

 結局、廃棄していなかったんですよね。

 

 防衛省をはじめとする日本政府は、日報の存在を隠蔽することによって、自衛隊のいる南スーダンが安全であると思わせようとした。もしかしたら散発的な「衝突」は起きているかもしれないけれど、「戦闘」は起きていないと言い張り続けた。撤退を転進と言い換えたあのころのように、原発は安全ですと言っていたあのころのように。そんなとき、犠牲になるのはいつだって真実です。

 

 以下、目次です。

 

 第1章 請求 布施祐仁
 第2章 現場 三浦英之
 第3章 付与 布施祐仁
 第4章 会見 三浦英之
 第5章 廃棄 布施祐仁
 第6章 銃撃 三浦英之
 第7章 隠蔽 布施祐仁
 第8章 飢餓 三浦英之
 第9章 反乱 布施祐仁
 第10章 難民 三浦英之
 第11章 辞任 布施祐仁

 

 この他にもプロローグとエピローグと文庫版の序に代えてと福島で行われた二人の対談とあとがきと文庫版あとがきがあるのですが、この本の醍醐味は、何といっても布施さんと三浦さんが交互に書いている、

 

 第1章~第11章です。

 

 東京にいる布施さんの「目」と、東スーダンにいる三浦さん(朝日新聞アフリカ特派員)の「目」が、ポジとネガのように反転しつつ、交差します。私には、三浦さんの「目」にはわかりやすく悲劇が映っているのに対して、布施さんの「目」にはどうしようもない喜劇が映っているように見えたんですよね。布施さんの「目」の前で繰り広げられていたのは、政治家や官僚による、組織内でのポジション争いなのではないか、と。嗚呼。三浦さんの「目」に映っているのは、悲劇を通り越して、言わば地獄だというのに。

 

 例えば、これ。

 

 国境地帯を退き、取材助手Aと一緒に多数の南スーダン難民が暮らすバギリニヤ難民居住区へと向かった。
 キャンプに足を踏み入れて驚いた。見渡す限りどこも子どもだらけなのだ。その多くが戦闘で両親を失った孤児である、と現場を任されているNGOスタッフは言った。
「どのくらいの数の孤児がいるのですか?」
「7000人くらいです」
「7000人?」と私は驚いて聞き返した。「全員が孤児なのですか?」
「そうです」とNGOスタッフは平然と答えた。

 

 第10章の「難民」より。隣国のウガンダに命からがら逃げてきた南スーダンの難民の話です。私は教員なので、この話は沁みます。7000人の孤児って、いったいその後、どれだけのケアが必要となるのでしょうか。その孤児たちの両親に起きた悲劇については、あまりにも凄惨で引用できません。この『日報隠蔽』だけでなく、同じアフリカを舞台にした三浦さんの『牙』や『太陽の子』にも、虐殺系の、読むに堪えない場面がいくつか出てくるんですよね。三浦さんが書く、目を背けたくなるようなリアルと、布施さんが書く、国会での不毛なやりとり。布施さんは、三浦さんとの対談の中で《南スーダンへのPKO派遣は現地のニーズからというより、日本側の政治的な事情や外交的な思惑から動機付けられていたということです》と話しています。政治的な事情や外交的な思惑というのは要するに、

 

 ポジション争いでしょう。

 

 組織内でのポジションなどに価値を置いていないフリーランスの布施さんと、朝日新聞という組織には所属していても、組織ではなく、もちろんポジションでもなく、自らの良心に従って行動している三浦さんのコラボが生み出したきせき。そのきせきによって隠蔽は暴かれ、防衛大臣は辞任に、自衛隊は撤収に追い込まれます。詳しくはぜひ、手にとって読んでみてください。

 

 もうすぐ2023年が終わります。

 

 よいお年をお迎えください。