田舎教師ときどき都会教師

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三浦英之 著『水が消えた大河で』より。根をもつことと翼をもつこと。

 1990(平成2)年、信濃川沿いにJR東日本の新しい発電所が完成し、毎秒317トンもの大量取水が開始されると、信濃川中流域は一気に干上がり、慢性的な水涸れ状態に陥った。魚が死に、流域周辺の井戸が涸れ、人々が心の拠り所としてきた雄大な大河の風景が姿を消した。
 人はその場所を「水が消えた大河」と呼んだ。
 そして以来、川にはあまり近づかなくなってしまった。
(三浦英之『水が消えた大河で』集英社文庫、2019)

 

 明けましておめでとうございます。元旦の昨日は東京の実家に帰っていました。1日は私の実家で、2日の今日は自宅で、そして3日はパートナーの実家でおせち料理を囲みつつ新年を祝うというのがここ数年の過ごし方です。行ったり来たりとはいえ、新潟、立川、南三陸、東京、ニューヨーク、葉山、アフリカ、福島、南相馬と2008年から2019年までの約10年の間に計9ヵ所も転勤・転居を繰り返したという、新聞記者の三浦英之さんの移動距離に比べれば、あるいは新潟の信濃川を遡上してくるサケの移動距離に比べれば、

 

 微々たるもの。

 

 

田作り(2024.1.1)

 

 おせち料理の話と『水が消えた大河で』の内容を、昆布巻きの「サケ」でつなげようと思ったのですが、写真を撮るのを忘れていました。田作りのカタクチイワシはその代わりです。

 

 無念。

 

 1990年に信濃川沿いに完成したJR東日本の新しい水力発電所によって水を奪われ、水位がないために遡上できなくなってしまったサケたちも、きっとこう思っていたでしょう。

 

 無念。

 

「山がやられれば、海がダメになる。海が汚されれば、山は育たない。ここらへんの漁師はみんな大昔から、山と海を一体的なものとして考えていたんだ」
「なぜ、ですか?」と私は思わず問い直していた。
「なぜ?」
「山と海が繋がっていると、なぜ漁師たちは考えたのでしょうか?」
「簡単だよ」とクルーは即答した。「サケがいたからさ」

 

 過去形での即答がサケたちの「無念」を表わしています。もちろん、山と海をつなぐ川の重要性を肌で感じ取っていたであろう漁師たちの「無念」も。ちなみにこの場面を読んでいるときに、初任校でお世話になった漁師の畠山重篤さんのことを思い出しました。畠山さん曰く、

 

 森は海の恋人。

 

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 漁師が山に木を植える活動「森は海の恋人」で知られる畠山さんも、山と海を一体的なものとして考えていました。山だけを考えたり、海だけを考えたり、会社の利益だけを考えたりするのはダメなんですよね。都会のことだけを考えたり、田舎のことだけを考えたりするのがダメなのと同じです。

 

 世界はつながっている。

 

 三浦さんが「翼をもつこと」の欲求に身を委ねつつも、今なお「根をもつこと」の欲求に関心を向け続けているのは、世界を一体的なものとして捉えることの重要性を、それこそ肌で感じ取っているからでしょう。三浦さん曰く《何かを生み出す人間はきっと、その地域に根を張って生きる人たちの方なのだろう》。

 

 新聞記者、斯くあるべし。

 

 

 三浦英之さんの『水が消えた大河で ルポJR東日本・信濃川不正取水事件』を読みました。三浦さんの処女作であると同時に、おそらくはその後の三浦さんの方向性を決定づけた一冊でもあります。その「方向性」というのをざっくり言えば、

 

 弱きを助け、強きを挫く。

 

 その後の『南三陸日記』も『帰れない村』も『日報隠蔽』(布施祐仁さんとの共著)も『五色の虹』も『牙』も『白い土地』も『災害特派員』も『太陽の子』も明らかにそうだし、まだ読んでいない『フェンスとバリケード』(阿部岳さんとの共著)もまだ発売されていない『涙にも国籍はあるのでしょうか』もきっとそうでしょう。特に「強き」に翻弄される「弱き」に対する三浦さんのまなざしがやさしく、それでいて主体的・対話的で、

 

 深い。

 

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 目次は以下。

 

 序 章 信濃川の現実
 第1章 川を売った市長
 第2章 昆虫博士
 第3章 水を取り返せ
 第4章 協議会の発足
 第5章 ダムが変えたもの
 第6章 JR東日本の不正
 第7章 国土交通省の決断
 第8章 開門
 あとがき


 これら以外にも、文庫版の序に代えてとして「水素爆発した『イチエフ』三号機の屋上から」が、文庫版に寄せてとして「川に舟を浮かべる者と土地に根を張って生きる者と」が収録されています。「イチエフ」は、福島と信濃川に起きた問題の構図がよく似ているということに、「川に舟を浮かべる者と土地に根を張って生きる者」は、見田宗介/真木悠介(1937-2022)さん言うところの「翼をもつこと」と「根をもつこと」が私たちの根源的な欲求であることに、それぞれ思い至らせてくれます。

 

 信濃川に起きた問題とは?

 

 1990年にJR東日本がつくった水力発電用の巨大な発電所が原因で、信濃川の中流域に水涸れの問題が起きた。1929年には約4万2000匹もとれたサケが、1990年以降は年に数匹しかとれなくなってしまった。かつての大河は、企業の論理によって、すっかり姿を変えてしまった。もちろん、その周辺の自然環境や人々の暮らしも変わってしまった。

 

 そういった問題です。

 

 似ていますよね、福島と。首都圏に電力を送るために発電所がつくられ、結局は地元住民が被害を被ることになる。送る側と、送られる側。同じ構図が、三浦さんの『牙』や『太陽の子』でも見られます。送る側はアフリカ、送られる側は日本です。福島や信濃川で起きている惨事を首都圏に住んでいる人たちは知らない。アフリカで起きている惨事を日本に住んでいる私たちは知らない。山手線の二本に一本は、

 

 信濃川の水で動いているのに。

 

 大切なのは、知ることです。三浦さんは、JR東日本を相手に信濃川の本来の姿を取り戻そうと闘い続けた人々の想いとプロセスを記録すべく、主体的・対話的で深い取材にとりかかります。

 

 闘いの結果、どうなったのか。

 

 最後に吉報を一つ。
 信濃川に本来の流れが戻ったことにより、2009年9月末、長野県や新潟県で相次いでサケの遡上が確認されました。

 

 あとがきより。ここに至る過程は、ぜひ『水が消えた大河で』を手にとって読んでみてください。そうそう、見田宗介さんは、翼をもつことと根をもつことをひとつにする方法を、次のように述べています。三浦さんが求めているのも、そういった境地なのかもしれません。

 

 全世界をふるさととすること。

 

 おやすみなさい。