田舎教師ときどき都会教師

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東畑開人 著『聞く技術 聞いてもらう技術』より。聞いてもらうから、はじめよう。

「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい。
 心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えられていることをそのまま受けとるほうがずっと難しい。
 ならば、どうしたら「聞く」ができるのか。これがこの本の問いです。
(東畑開人『聞く技術 聞いてもらう技術』ちくま新書、2022)

 

 こんにちは。数年前、授業中に「担任を出せ!」という電話がかかってきて辟易としたことがあります。管理職がしばらくがんばってくれたものの、結局は授業中に電話に出ることになって、挙句「なんですぐに出ないんだよ!」みたいなことを言われ、もう「聞く」耳なんてもてません。えっ、息子さんが事故に遭ったんですか(!)というような緊急性のある用件ならまだしも、そんなことはまるでなく、

 

 業務妨害も甚だしい。

 

 手術中の医師を電話に出せとは言えないだろうに。運転中のパイロットを電話に出せとは言えないだろうに。教員のなり手が減るのも当然です。だって「担任を出せ!」なんていうことを口にしてしまうくらい凶暴・凶悪な、ではなく、孤立し、傷付いている保護者の話まで聞かなければいけないわけですから。親が孤立していれば、当然、子どもだっておかしくなります。そんな親子を相手にしていれば、教員だっておかしくなります。おかしくなったら、聞けません。では、どうすればいいのか。スクールカウンセラーの経験もある、臨床心理士の東畑開人さんはこう言います。

 

聞いてもらうから、はじめよう。

 

 保護者も、子どもも、そして教員も。

 

 

 東畑開人さんの『聞く技術  聞いてもらう技術』を読みました。冒頭の引用は「まえがき」からとったものです。「聴く」よりも「聞く」のほうが難しいって、初っぱなから不意を突かれ、なるほど確かに(!)。東畑さんは次のように「聞く」と「聴く」を定義づけます。

 

 「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること。
 「聴く」は語られていることの裏にある気持ちに触れること。

 

 忙しくて子どもたちの話を「聞けない」ことはよくありますが、「聴けない」ことはあまりありません。先生は聴いてくれない、ではなく、先生は聞いてくれない。忙しさのあまり勝手に&ショートカットで《裏にある気持ち》を推測してしまうという、教育現場あるあるの話です。

 子どもたちを含め、世の中の多くの人々が求めているのは「聴いてもらうこと」ではなく「聞いてもらうこと」です。言い換えると、まずは思いを受け取ってほしいということ。それができていないのではないか、というのが東畑さんの問題提起です。「聞く」の不全が社会をダメにしている。個々人に苦悩を与えている。マクロにもミクロにもまたがる切実な問題になっている。では、どうすればいいのか。

 

 繰り返します。

 

聞いてもらうから、はじめよう。

 

 目次は以下。

 

 第1章 なぜ聞けなくなるのか
 第2章 孤立から孤独へ
 第3章 聞くことの力、心配の力
 第4章 誰が聞くのか

 各章のタイトルに基づいて概要を紹介すると、なぜ聞けなくなるのかといえば、それは孤立している人が増えたから。孤立している人は不安感を抱えているがゆえに、周りの人が敵に見えてしまって、話を聞くことも話を聞いてもらうこともできません。

 でも、孤立が孤独になると変わってくるというのが第2章。東畑さんは《孤独には安心感が、孤立には不安感がある》と使い分けていて、孤立が孤独になれば、心は一歩前進すると言います。では、孤立を孤独に変えていくためにはどうすればいいのか。その最たる対策は《善きつながりを提供すること》です。勤務校の近所にあるこども食堂のオーナーさんが、食事を提供するのは手段であって、目的は地域につながりをつくることと語っていたことを思い出します。つながりができれば、孤立は孤独に変わり、「聞く」の前にある「聞いてもらう」が可能になって、状況は徐々によくなっていく。だから、またまた繰り返しますが、

 

聞いてもらうから、はじめよう。

 

 聞いてもらうことさえできれば、ドミノの1枚目を倒すことができるというわけです。だから「小手先の技術」を駆使してでも、

 

 ドミノの1枚目を倒したい。

 

 そんなわけで、第2章と第3章の間には「聞いてもらう技術  小手先編」と称して、「隣の席に座ろう」「トイレは一緒に」「ワケありげな顔をしよう」などの技術がたくさん紹介されています。ちなみにまえがきと第1章の間には「聞く技術  小手先編」と称して、「沈黙に強くなろう」「奥義オウム返し」「気持ちと事実をセットに」など、教員にも必要と思われる技術が多々紹介されています。いずれにせよ、小手先の技術を駆使してでも「聞く、聞いてもらう」を何とかしないと、社会も個人もダメになってしまうような現状があるということです。

 聞いてもらうからはじめてつながりをつくり、孤立を脱して、今度は「聞く側」にまわる。そして聞くことの力、心配の力を駆使して《みんなが聞こうとしている。そして本人も聞いてもらうことを恐れなくなっている》という社会をつくる。

 

 臨床心理学の専門家として、いろいろと高度な理論を学んできて、心は本当に複雑だなと思い知らされる一方で、つながりをもてるかもてないかというごくごくシンプルなことが、心にとっては決定的に重要であることを痛感する毎日です。

 

 第3章より。学級づくりも「つながりづくり」です。子どもと子どもをつなげる、担任と保護者のつながりをつくる、子どもたちと地域をつなげる、等々。つながりをもてるかもてないかというごくごくシンプルなことが、心にとっても頭にとっても決定的に重要であることを痛感する毎日です。ターゲットはテストの点数ではなく、つながり。つながりができれば、テストの点数も自然と上がっていきます。

 第4章には《誰に聞いてもらうとよいのか》が書かれています。専門家でしょうか。家族でしょうか。東畑さんは「友達」という言葉を使います。そして《この本の「聞く」論は、実は友人論でもあるんですね》と書きます。必要なのは、

 

 友人的第三者。

 

 当事者ではなく、第三者というのがポイントです。今週の日曜日に伯母さんの葬儀に出席した際、伯母さんのご近所さんと少し話をしました。友人的第三者として「聞く」というケアをずっとしていただいたようで、

 

 終始涙そうそう。

 

 家族でも親族でもない、友人的第三者とのつながりがあったからこその涙です。伯母さんは聞くことの力と心配の力の大切さをよくわかっていて、心配に頼ることで善きつながりをつくることができたのでしょう。だから伯母さんも東畑さんと同じことを言っているように思います。

 

 聞いてもらうから、はじめよう。

 

 聞くことのちからを信じて。